みんなのコンサート

日時;2022年x月v日(z)
会場;山手イギリス
時間;コロナ禍のため延期しています。必ずコンサートを再開します。お待ち下さい。

大岡講演会

日時;2024年1月28日(日)
テーマ;因果性について 17
会場;研究所 2階 会議室
時間;午前10時〜12時

あそぼうかい

日時;2024年1月21日(日)
会場;よこはま児童文化研究所
時間;午後1時〜2時

哲学・科学研究会
日時;2024年1月6日(土)
会場;よこはま児童文化研究所
時間;午後3時〜6時

ゼミナール・コンサート


日時;2024年1月14日(日)
演奏曲目;
会場;よこはま児童文化研究所
時間;午後2時〜4時

ラーニングボックス研究会

日時;2024年1月20日(土)
会場;よこはま児童文化研究所
時間;午後1時0分〜4時0分

トントン広場


日時;2024年1月27日( 土
会場;西前小学校 
時間;午後1時30分〜3時

NMSセミナー


日時;2022年月日(土〜日(日)会場の都合で来春の4月頃に延期します。
会場;葉山国際会議場 大会議場

第25回 公開講座

日時:2022年x月y日(日)
時間:午前10時〜午後4時
会場:横浜市大岡地区センター2階 会議室

天城ワークショップ

日時;天城山荘の都合で延期します
会場;静岡県伊豆市天城山荘

第31回 「朋コンサート」

日時:2024年6月x日(土) 
時間;1時30分から
会場;社会福祉法人「朋」

第51回 日本特殊教育学会

日時:2024年x月y日(金)〜x月z日(日)
会場;福岡大学

第49回 総会 よこはま児童文化研究所

日時:2023年10月9日(月)
時間:午前10時〜午後4時
会場:横浜市大岡地区センター2階 会議室

青年部ボーリング大会;

日時:2023年12月24日(日)
集合;京急 横浜駅 10時15分
時間;午前11時から
会場;R1

青年部プール

日時:2020年8月x日(日)
時間;午前10時 横浜駅集合
会場;リネツプール

新春ハイキング 金沢動物園

日時:2024年1月7日(日)
時間:10時から
集合場所:京急 金沢文庫駅改札 午前10時

弘前ラーニングボックス研修会;

日時:2023年2月18日(土)〜19日(日)
時間;午前9時開場
会場;ロマンとピア

よこはま児童文化研究所が子どもとともに、これまでしてきたこと、いまここでしていること、これからもすること

2013/07/25
よこはま児童文化研究所 所長 原 ふみ


 キリストでないイエスの最後を描いた「パッション」という映画があります。ユダに裏切られ十字架に磔になる最後の時間を描いた壮絶な話です。よこはま児童文化研究所はキリスト以前のイエスに関心を寄せてきました。
 さて、十字架上のイエスが、自分の足首に釘を打ち込むローマ兵士のために、神に許しを請う場面が描き出されます。「神よ、彼らを許し給え。彼らは自分のしていることが解っていないのですから」と祈ります。
 ここに、史上初、他者への許しが始まりました。
 それまで自分のために祈ることはあっても、他者のために祈るという行為はなかった。だからこのイエスの「ロゴス」は永遠に刻印されたのです。
 イエスの愛はまさに「至上の愛」に結晶したのです。ジャズ界の王者であったJコルトレーンの「至上の愛」を聞いた方もいらっしゃるでしょう。
 本当の人間関係が始まったのです。そして、私たちは誰でもこの歴史を背負って生きています。誰一人としてこの歴史的事実「他者のために祈る」ことから逃れることは出来ません。いや、逃れようとしてはいけないのです。
 さて、よこはま児童文化研究所は「ともどもに」1を目指してきました。ひとりひとりの胸の中にそれぞれに掴み取った「ともどもに」の炎が明明と燃えています。
 「先他後自」2は「トントン広場」や「天城子どもと親とのワークショップ」で実践されてきました。誰でもが「どうぞ、お先に」をスッと言えるようになろうとしてきました。例え、自分の命が短くなっても。
 「子どもとともに育つ」3ことは難しい。しかし、一端やり始めた限り、やり通しましょう。子どもの命をあずかっているのですから、「子どもを育てる」だけでは不十分です。子どもと共に自らも育つのです。
 「子どもを知ることは、自分を知ること」4です。子どもの命を育みながら、みずからの無知を知り、成長するのです。なぜなら、「子どもは日本の未来を担う」5存在だからです。私のしている意味を子どもたちが教えてくれます。この子どもとの関係で紡いだ意味は本当に重いのです。この意味の中にこそ私の人生があるのです。
 そのために「子どもに丸ごと自由」6を預けてしまいました。一面の「自由の草原」で、子どもたちは自分の行動に責任を感じ、友達のために働き出しました。自由な場こそ子どもたちが自らの行動に責任を感じさせるのでした。J.P.サルトルは「人間は自由に脅かされている」と言いました。
 私たちは、抽象化された子ども「像」に振り回されることなく、彼らと「共に過ごした情景」7のなかで、子どもの心を理解し、その理解した内容を、子どもたちにお返ししてきました。そして、彼らは、今、どういう状況にいるのかを理解し、自分の行動を友達のために使うようになりました。美しい人生の誕生です。
 彼らは「美しく調和のとれた行為」8を見せるようになりました。生物は永遠の過程に生きています。彼らも私も成長・変化を繰り返し、友達との調和のとれた付き合いを楽しんでいます。パラダイスはそこにポツンと投げ出されてあるものではなく、彼らが私が自分たちの力で創るものだと感じています。
 それが「こんどの天城はいつ?」という美しくも期待に満ちた「ロゴス」となって、彼らの心の中に鳴り響いているのです。そんな彼らに感謝しない日はありません。感動のある人生の誕生です。
 子どもたちよ、私たち大人のための導きの灯火となって下さい。これが、よこはま児童文化研究所が大切にしている8つの柱です。
 さて、よこはま児童文化研究所の人々は、イエスの「至上の愛」を越えることができるでしょうか。やってみる価値は十分にあります。
 

よこはま児童文化研究所 所長 原ふみ
            副所長 林健一
            副所長 上野岳
トントン広場 部長   島津久子


新年あけましておめでとうございます


  みなさんお元気でしょうか。よこはま児童文化研究所は昨年の10月に49回目の総会を実施できました。多くの方々が参加してくださり感激でした。 
  北朝鮮が戦争の準備をいっそう厳しく始めたニュースが流れました。ウクライナとロシアの戦争が続く中での宣言でした。世界の人口が80億人を超え衣食住の問題が山積している状況にお構いなく宣言しました。まるで地球世界が波間に浮かぶ小舟のようです。
しかし、そんな世界と日本の状況の中でもYJKの若者たちは研究所に足を運んでくれています。年末には3年ぶりの「ボーリング大会」がもたれました。これは、また新しい出来事で私にとって感動の一語です。ホームページに予定されている各種のグループは、毎月できる限り実施してきました。今年も実施を継続してまいります。
  「よこはま児童文化研究所物語」が世に問うている生き方があちこちで見られるようになりました。「ともどもに」そして「協働愛」で生きる困難さが世界規模で現実味を帯びてきました。しかし、人間は「社会的動物」ですから、波間に浮かぶ協働の船を沈めるわけにはいきません。
  私ども研究所で皆様方の復帰を願うスタッフ達は諦めないで おいでくださることをお待ちしております。
  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2024年 元旦
よこはま児童文化研究所
所長 原ふみ

What's New



2024年1月1日(月) 新年のご挨拶を申し上げます。





2024年1月1日(月) 能登半島の地震にお見舞いと、哀悼の意を!
2月6日のトルコ、シリアの大地震にお見舞いと、哀悼の意を!
一日も早い,復興を願います。
 

2024年1月1日 14回目の被災地訪問を果たしました。
2023年1月1日 13回目の被災地訪問を果たしました。
2022年1月1日 12回目の被災地をめぐりました。ほんとうに、よかった。まだまだ家族や友人達との思い出の復活には遠いかもしれません。でも、ともどもに、協働愛で日暮らししましょう。自然は美しくなろうと,吐く息が真っ白だった。

2021年2月13日午後11時8分に、東北地震がありました。皆様の無事を祈ります。

2021年1月1日 今年も被災地にお邪魔しました。今年はマスクをしながら、ランニングやジョギングをする大勢の人々に会いました。なぜか嬉しくなりました。生きる力、決意を感じました。感謝(T)

2020年1月1日、被災地の方々と出会いました。安心しました。

2019年1月1日、被災地を巡りました。出会う人々に、以前よりも喜びの表情があり、安堵しました。公園では、女の子たちが、懐かしい凧揚げをしていました。一瞬、涙が出そうになりました。こういう、何気ない日常のありようが平和を象徴しているのですね。大勢の子どもたちが、それぞれの遊びに夢中で、それはそれは、嬉しくなりました。これからも、どんどん復興していくことを願います。(T)


東北関東大震災
12年目に入りました。これからも「よこはま児童文化研究所」は支援させていただきます。
一日も早く復旧,復興が「完全に」できますように見守りたいとおもいます。どうぞ、みなさま、お体を十分においたわり下さい。

2016年4月14日午後9時半過ぎに、熊本地方に大地震が起きました。復旧,復興が「完全に」できますように見守りたいとおもいます。被害に遭われたみなさま、お体を十分においたわり下さい。

2018.8.6日未明に、北海道で地震が起きました。復旧、復興が一日も早く出来ることをお祈りいたします。
講演依頼受付を「お問い合わせ」欄に設けました。ご利用下さい。

第136回 「天城子どもと親とのワークショップ」へのお誘い

2020.2.


みなさまいかがお暮らしでしょうか。数日前に庭の梅の木に白い花がつきはじめました。時折、風に揺られて花びらが唄うような振る舞いを見せてくれます。もう、嬉しくってドキドキしました。

世界二十数カ国で「コロナウイルス」が猛威を振るっています。皆さんも心配の中でのお暮らしかと思います。こういう世界規模の大きな出来事がある年数毎に発生しますね。充分にご留意のうえお暮らし下さい。医療関係者のご苦労にすがるしかありません。亡くなる方が一人でも少なくなるようにただただ祈るしかありません。

先日「弘前ラーニング・ボックス研修会」に参加してきました。飛行機から下を見ると山頂付近には雪がなく、谷間や路側に白いものが見えました。道路はカラカラに乾いていました。会場の「ロマントピア」には雪がたっぷりとありました。
さて、春の「天城子どもと親とのワークショップ」の時期が迫ってきました。待ち遠しくてならないメンバーがたくさんいます。菜の花の咲く伊豆の畑や、清流の狩野川、そして高く聳える富士山など、見慣れた景色が待っています。いちばん嬉しいのは、どこからかふわっとやって来て、そっと頬をなでる美しい風のささやきですね。唄いたくなりますね。「はーるの、うららの、−−−」なんてね。

今、いちばん大切にしていることばは「水中の水」です。「よこはま児童文化研究所」のシンボルとも言えるようなことばです。「協働愛」で「ともどもに」生きましょう。水中の水のように生きましょう。

よこはま児童文化研究所 所長 原ふみ
トントン広場 部長 島津久子
副所長 上野岳
副所長 林健一

第13回 弘前ラーニングボックス研修会のご案内

2023年1月17日(火) 


 雪の弘前城

 
第13回 弘前ラーニングボックス研修会の案内

2023年 世界の国ぐにと日本国内の社会情勢が多方面に混迷している現在、安定性が失われ、闘いが平和を戻せるのか混沌としています。近代は、国の在り方、人間とは何かを追い求めた時代でしたが、現代はそのような事態が失いつつあると考えざるを得ない。
世界はどんな時代に立ち、どう向かうのでしょうか。共に生きること、人間として、自分自身の視点からものごとを捉えて、ともどもに生きましょう。世界中の子どもたちの目の輝きと、笑顔が見える時代を願っております。一緒に学び話し合あいましょう。
どうぞ、お出でくださるようお待ちしております。

日時  20232月18日(土)-19日(日)
講師  立川勲先生  よこはま児童文化研究所顧問
日程  18日(土)9:0012:00
           演題 「ことばと実在」  立川勲先生
           13:0016:00
           体験  ラーニングボックスに出会いましょう 
      19日(日)9:0011:30
           みんなで話し合いましょう

会場  弘前市星と森のロマントピア
      〒036-1505
      弘前市大字水木在家字桜井113-
      ℡ 0172-84-2288

           弘前ラーニングボックス研究会会長
櫛引幹子
      
       

第回49  よこはま児童文化研究所 総会 案内


よこはま児童文化研究所
所長 原ふみ
2023.8.29(火
)

  皆様お元気でお暮らしでしょうか。私は、皆さん方のために、必死で「よこはま児童文化研究所」を守っています。一日も休まないで、守ってきました。
  まだコロナ禍における生活です。コロナ以前の状況に戻ることは出来ないかもしれません。世界中の対応は経済復興に絞られ、各国家間の往来が大々的に復興されました。旅行客が激増したのです。その結果がどうなるかは今後の問題です。
 「よこはま児童文化研究所」の「天城子どもと親とのワークショップ」、「N.M.Sセミナー」、「青年部プール大会」、「みんなのコンサート」などなどが、会場の都合で、休止か延期が継続中です。それでも「正月の金沢動物園」、「トントン広場」、「あそぼう会」、「ゼミナールコンサート」、「大岡講演会」、「哲学科学研究会」、「ラーニングボックス研究会」は実施してきています。
  若者たちは、とても悔しい思いを、また友人たちと会えない淋しさが身にしみるようです。でも継続中の集いで、なんとか淋しさをしのいでいるようです。
  さて、「よこはま児童文化研究所」第48回の総会の時期になりました。昨年は「今年も、特別の総会になるかと思います。コロナ禍の中での開催になりました。コロナを恐れず、かつ注意を逸らさずの総会になりそうです。」と書きましたが、今年はできるだけ多くの方に参加していただいて、あの「よこはま児童文化研究所」の雰囲気を感じあってもらいたいと思います。

よこはま児童文化研究所人」がこの世界から消えることはないと確信しています。本気で自由と平和を求めて、ともどもに歩んできた仲間と出会い、あらためて協働愛の精神を確信しましょう。

  どうぞ、この地球上の世界の中に「よこはま児童文化研究所人」の存在が意味あるものにしたいという深い思いを込めて、皆様方のご参加を本心よりお願いいたします。

                 

1.会場

横浜市大岡地区センター 2階 会議室
横浜市南区大岡1-14-1
℡ 045-743-2411
アクセス 横浜市営地下鉄 弘明寺駅 徒歩5分

2.開催日 2023年10月9日(月) スポーツの日

3.時間  午前10時~午後4時
    昼食:濱町

4.時程
挨拶 副所長 林健一 上野岳
①10時 所長挨拶 原ふみ
②10時15分 ラーニングボックス学習法の実践
③12時 昼食
④14時 記念講演 立川勲
 演題 見つめ合い、聞きあい、そして触れあい
⑤活動報告と応答
 哲学・科学研究会
 ラーニングボックス研究会
 ゼミナール・コンサート
 トントン広場
 大岡講演会
 あそぼ会
5 主催 よこはま児童文化研究所 所長 原 ふみ
6 連絡先  
   横浜市西区平沼2-14-1 LM平沼第3-107号
   Tel & Fax;045(324)5679
   E-mail webadmin@yjklb.jp

第19回 2022年度「N・M・S」案内

研修の趣旨文

恐ろしい過去と現在、そして未来

2022.7.30

(1)ウイーンにおける事件

  知りたくなかった歴史の事実が明らかにされた。イギリスのローナウイングによって知ることになった精神科医、H.アスペルガーのナチス第三帝国との関係が、エディス・シェファーにより明らかにされた。



アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源 エディス・シェファー/著 山田美明/
原題 Asperger's Children: The Origins of Autism in Nazi Vienna (English Edition) 1st Edition,

  アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物だった!?
アスペルガーはよく、第三帝国時代に黙々と研究に没頭しながらナチスに抵抗した、進歩的で思いやりのある人物として表現される。(中略)

  ところが記録や史料を調べてみると、まったく別の物語が見えてくる。アスペルガーは、ウィーンの児童殺害システムにさまざまなレベルで関与していた。ウィーンの児童安楽死システムの指導者たちと近しい関係にあり、ナチス政府のさまざまな役職を通じて、何十人もの子どもをシュピーゲルグルント児童養護施設に送っていた。シュピーゲルグルントとは、ウィーンの子どもたちが殺害された施設である。

  このアスペルガーが児童安楽死プログラムに関与していた事実と、障害のある子どもを守ったという周知の事実とは両立しない。だが、どちらも記録にはある。実際、アスペルガーの仕事を詳細に調べてみると、彼の行動には二面性があったことがわかる。(「序」より)

エディス・シェファー(Edith Sheffer

  米カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)欧州研究所の上級研究員。専門はドイツおよび中央ヨーロッパの歴史。著書に『Burned Bridge: How East and West Germans Made the Iron Curtain.』(未訳 。Paul Birdsall Prize, Fraenkel Prize in Contemporary History, Keller-Sierra Prizeを受賞)がある。

(2)アメリカにおける事件

  また、1939年に米国アイオワ州ダベンポートで、アイオワ大学のウェンデル・ジョンソンの監修により行われた吃音症(言葉がスムーズに出てこない症状)に関する実験により人生を台無しにされた被害者の声が放映された。
この実験では22人の孤児たちを集めて2つのグループに分け、それぞれに真逆の「指導」を施された。



  一方のグループに対しては喋り方が適切であることを褒め、他方のグループに対しては、少しでも喋り方がおかしいと、それを指摘し、吃音症が原因であると告げられた。
  その結果、ネガティブな指導を受けたグループの一部は、もともと何の問題も無かったのに、実験が与えた心理的効果によって吃音症に苦しむようになった。
しかも、その症状は実験の後も治ることは無かった。

  ちなみに、「モンスター・スタディ」という名前は、この実験の残酷な面を捉えて、ジョンソンの同僚が付けたと言われています。

  実験が行われた時期が、ちょうど、ナチによる人体実験の開始時期と重なっていたため、ジョンソンの評判に傷が付くことを恐れて「モンスター・スタディ」の存在は隠されていた。
  アイオワ大学がこの実験について公式に謝罪したのは2001年のことです。

(3)日本における事件

  日本においても、3年前に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」が恐ろしいまでの衝撃を国民に与えた。この事件は,明らかに、優生学上の視点を含んでいた。それは、殺害動機として表にあらわれてきた視点であった。わたしは「ぞっと」した。


この事件に関して、辺見庸氏は「月」というノンフィクションを上梓された。この著作によって、「相模原事件」の内容に深く入った人が、大勢あったと思う。出版記念の講演会時に、彼は「与死」という聴衆にとって耳慣れない言葉を使い、「与死」に反対された。その理由は、もし我々が犯罪者の「与死」に賛成すれば(すなわち、死刑に加担すれば)、我々は、犯人と同じ立場に立つことになる、と警告を発した。殺害された家族や親族にとっては複雑な発言だったと想う。
  今年、2019528日の、川崎における「カリタス小学校児童殺害事件」、201964日の、元官僚で農水省事務次官の我が子殺害事件、そして718日の、京都の「京アニメ」殺害事件と、雪崩を打ったように殺害が連続している。一見して、これらの事件の原因や理由が異なるように見えるが、深く分析すれば同一の「闇」が見えてくるかもしれない。
 
  何がこうした殺害事件の背景にあったのだろうか。通りいっぺんの解説や論評を拒むのが在る。人間存在の避けられない絶対矛盾というしかない根源的な人間の有する問題とも考えられる。言い換えれば、人間であれば、だれでも犯す過ちとして考える必要を感じる。なぜなら、私ども人間は最初から「悪」の華の上に咲いた華なのだから。今こそ、悪の根源を見つめ、自己の根源を見つめ、その上で社会的な行為をしていく必要を感じる。

  一方では「ハヤブサ」の快挙を喜ぶ社会が展開され、一方では官僚がデータ改竄をしながら国会を欺き、企業ではブラックな操業が実施され、乳幼児園では体罰が横行し、芸能界では「反社会」から金銭を貰い、マスコミは正確なデータを報道しなくなり、自然災害が年中発生し、国家間では軋轢が罷り通り、人種差別が頻発し、宗教による騒乱が絶え間なく発生している。

こういう「悪」に塗れた世界の現状と、80年以上も前に歴史上に実際に起こった「安楽死」問題は、これからも100%以上の確率で起こりうる。こういう現状に対して宗教界も少しずつ立ち上がっているように見えるが、まだまだ、不十分である。

  私どもは、政治、経済、社会問題を人任せにすることなく、自分の全人生をかけて阻止し、正しい有り様を全うできる体制づくりに関与すべきである。なぜなら、私どもの子ども達は、全て未来に生きるからである。過去から学び、現在を闘い抜き、未来をつくる、こういう歴史の流れのまっただ中によこはま児童文化研究所の「ラーニング・ボックス学習法」があります。
  あの「箱」の根底には太い人類愛が大きく横たわっています。是非、「NMS」にご参加下さいまして、ともどもに歩んで下さいますように、お願い申し上げます。

よこはま児童文化研究所 所長 原ふみ

研修テーマ 「ラーニングボックス学習法」を知り尽くす
シリーズ、その(3)


  皆さまいかがお暮しでしょうか。今年は、「九州地方で50年ぶりの大雨」が猛烈な被害をもたらしています。皆さまのお住まいの方は大丈夫でしょうか。被災地の方々には、心よりお見舞い申し上げます。

この文章は昨年に認めた物です。今年も、昨年同様の気象になっています。

  ここまでの文章は昨年までのものです。今年も、天城子どもと親とのワークショップは台風6号のまっただ中に実施しました。予報に反して、真夏の気象でした。

  さて、豪雨という自然災害のまっただ中で、「よこはま児童文化研究所」、第17回目の 「N.M.S.」をご案内申し上げます。現在、研究所では「ラーニングボックス学習法」を超える学習法が見つかっていません。この学習法に代わるもっと優れた学習法が発見できるまで継続させるつもりです。

  本年は、研修テーマに示したように「ラーニングボックス学習法を知り尽くす」ことを目標に掲げました。とにかく、ラーニングボックスを挟んで学習者と協同学習者が向き合う構造の中で学習が展開されます。
  この学習構造を「二極構造論」と命名して、ラーニングボックス学習法において起こっている全事象をクリヤーカットにラーニングボックス学習を理解することが、一番の早道だと考えるようになりました。研修会で実践場面を観ていくときの参考のために、図1の「二極構造図」を参照しながら説明してみましょう。

図1から、まず、学習者の側から取り上げてみます。

学習者は青線で示したように、ラーニングボックス上の三枚のカードを見ます。同時に、ピンク線で示したように、向かい側にいる協同学習者の顔や表情や所作を見ます。また、学習者は、五名の顔図で示したように、心理的な背景として、一日の出来事の体験を背負って、ラーニングボックスの前に座っています。これは、協同学習者が直接に見ることができませんが、非常に重要な場面を引き起こすことが多々あります。そして、学習者は、協同学習者が見せたカードを見て、ラーニングボックス上に並んでいる3枚のカードから、該当するカードを選択取得する。ラーニングボックス学習法は「T1-T2-T3-T4学習法」だから、T2とT4試行期に「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴るP音が提示されます。各学習者は、このP音を自分なりに聴き取り、反応します。

  学習者と協同学習者とがラーニングボックスを挟んで向き合った状態を「二軸構造」とします。この状態は、ラーニングボックスがある限り所与の条件となります。両者はこの関係条件のなかでお互いに学習し合います。

こんどは、図1を、協同学習者の側から見てみましょう。

  まず、協同学習者は、入室してくる行動の状態から、学習者の一日の体験を推量します。「いい日だったのかな」、「怒られたのかな」、「楽しくやれたのかな」、「先生に叱られなかったのか」、「友達と喧嘩しなかったのかな」、「給食を食べられたのかな」などなど、ありとあらゆる一日の学習者の出来事に思い巡らします。協同学習者は、学習への体制を整えながら、学習者の様子を見て、頃合いを見計らってカードを出します。「はい、Aちゃん、いいですか」と言いながら、カードを静かに見せるようにします。勿論、この時も学習者の行動と心のあ状態に十分に気を配ります。

協同学習者は、学習者に2つの観点から配慮しています。1つは、今、目の前で、ラーニングボックス学習法で学習している直接に見える学習者に対しての配慮、もう一つは、学習者の一日の体験の中でまだうまく処理できないでいる「悔しい思い」とか「いらだたしい気持ち」などへの配慮です。このいまだ処理できないでいる気持ちへの配慮は、非常に重要です。案外、学習者は前の場所での出来事に引きずられていることがあります。この時、学習者のそういう「いらだち」などを無視すると、学習はうまく運びません。難しいのはこういう協同学習者に直接に見えない、学習者の「こころ」を受け止めることです。

 さて、次に、学習者の学習行動を説明できるかぎりしてみましょう。
  図1の青線の矢印で、学習者のカードの選択取得が始まります。この時には、認知心理学的、神経活動的な活動が活発に起こっています。そして、学習過程が進むと、学習者は自分が選択取得しているカードが求められている課題に沿うものであることに自信をつけてきます。すると、学習過程が加速され、P音試行期では、頻繁に「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴り出します。すると、学習者は、ますます、自信をもち、確信へと進んでいきます。これは、協同学習者にとっても、「いい学習」になります。

  学習者は、次第に、背後の五名を忘れるほど集中していきます。両者にとって「やったあ」という、素晴らしい共喜時間に変貌します。学習者は「ラーニングボックスをやってよかった」と感じるし、また、協同学習者は「いっしょに、学習する時間がもててよかった」という、至福の時間をいただきます。

こういうピンクの矢印の流れが、喜びの感情で共有されることで、お互いに、お互いへの人間としての信頼が増幅し合うし、自己への信頼が揺るぎなくなる。また、「ピッ、ピッ、ピッ」が鳴り響くことで、学習者の神経科学的な活動が活発になり、ニューロンがその課題に応じて張り巡らされ、達成感からもたらされる幸福感に驚くようになります。
  こうして、学習者は、2つの難題を克服していきます。(1)他者への信頼、(2)神経科学的なニューロンの縦横な張り巡らし、を達成していきます。
学習者のこの状態は、協同学習者には、案外、明瞭に感じられるのです。そして、協同学習者も学習者と同じような「いただきもの」をいただく結果になります。

さて、最後に、「ラーニングボックス学習法」で何が大切であるかを述べておきましょう。ラーニングボックス学習法では、使用されたカードの図、状態が学習者の脳の記憶の座に永久に保存されることはない。そうではなく、学習者が協同学習者と一体になって取り組んだ時に機能した関係脳部位のニューロンの集合、離散が随時起こり、それが学校や職場などで活動、活躍するときに、言語的、あるいは、感情的、あるいはやる気、などに変容して有効に働いているということです。簡単に言えば、カードの選択取得活動時に機能した数多くのニューロンの痕跡が保存され、ラーニングボックス学習以外の活動の場で応用的に機能する、ということです。

 どうぞ、みなさま、「NMS」に御参加いただき、協同学習者あるいは学習者としての体験で参加者の皆さんなりのラーニングボックス学習法の理論をお創り下さい。
 お待ちしています。

よこはま児童文化研究所 所長 原ふ


1.会場

葉山 湘南国際村センター 神奈川県三浦郡葉山町上山口1560-39
    ℡ 046(855)1810

2.開催日 2020年10月24日(土〜25日(日)

3.時間  2020年10月24日(土)午前9時〜10月25日(日)12時まで

4.研修内容

研修テーマの「ラーニングボックス学習法を知り尽くす」を実現するために、
「達成率の減少は遅延時間(保持時間)が長くなるほど大きくなるという仮説の下で、「T1-T2-T3-T4学習法」を使い、視覚的知覚課題に遅延条件を施し、達成率の変動からワーキングメモリの状態を実践的に検討する」という視点から実践的にラーニングボックス学習法を知ろう。

5.主催 
   よこはま児童文化研究所 所長 原 ふみ
   横浜市西区平沼2-14-1 LM平沼第3-107号
   Tel & Fax;045(324)5679
   E-mail webadmin@yjklb.jp
6.申し込みなど

電話、HPからお申し込みください。
よこはま児童文化研究所HPの特別部門セクションをご参照ください。

第193回 「トントン広場」のお知らせ 2024年1月27日 (土)

 


あっという間に2023年もあとわずかになりました。皆様は、お元気でお過ごしですか。 さて、11月のトントン広場では、みんなで準備する「運動会」を予定 していま す。 どんなことしたら、みんなが楽しむのかな、準備して、体育館でみんなで手を取り合って楽しみ、冬を迎えましょう。

青年部の力強いスタ ッフが笑顔で皆様をお待ちしています。 「健一さあん、 こっちこっちい。」 「森さあん、いっつもありがとう。」 「はあい。オープンし ましょう。」 「智彦さあん、あ、もうそこにいてくれるの。」 「よおし、あけますよう。」「はあい。ほら、はじまる時間だあ。」 11月のイベントは、「心と体で作っちゃおう」です 。 みんなの選んだ予定とプログラムで遊びましょう。

1.日 時 2024年1月27日土曜日 午後1時30分―3時

2.場 所 西前小学校 体育館

3.内 容「体と心と季節の遊び」――みんなで気持ちを体を動かそう――


4. 連絡先 よこはま児童文化研究所   
   横浜市西区平沼2-14-13 LM平沼第3-107
   Tel & Fax;045(324)5679
   e-mail webadmin@yjklb.jp

  部長  島津 久子  
副部長 松阪啓子 森和正

第236回 「ラーニングボックス研究会」案内

研究会趣旨

 本研究作成の「複合図形課題」を「よこはま児童文化研究所式刺激提示装置(Y・L・B)」を使って学習し、そこから学習者の「認知と感情と記憶」の絡みを明らかにすることを目的とする。

1 会場;よこはま児童文化研究所 
   所長 原 ふみ
   横浜市平沼2-14-13 LM平沼第3-107
   Tel & Fax;045(324)5679
   e-mail webadmin@yjklb.jp

2 開催日 2024年1月20日(土)

3 時間 午後1時0分~午後4時0分

4 研究内容

(1)よこはま児童文化研究所 顧問 立川勲

 LBMは協同学習者のMD提示から、学習者のSD選択取得までの2秒足らずの短い時間内での出来事である。学習の目的は与えられたワークシートを使って、精確度と速度をアップすることである。学習の初期において、通常、この2つの度合いはトレードオフ関係にある。そこで記録用に所要時間と「+」と「-」を記す。時間の短縮と、「+」の増加の結果から学習の成果を分析する。脳の働きがより機能的になったと判断する根拠となっている。
 「L1―M1―L2―M2」で40試行を繰り返すと、その後ある学習結果としての軌跡が残される。その軌跡は学習者の脳の働きそのものである。脳の働きは経験によって出来ていく。したがって、脳の機能形成に刺激の異同と提示の回数がポイントになる。「L1―M1―L2―M2」法はこの必要条件を満たしている、と考えられる。学習記録の枚数の増加と、学習者の日常生活の変容・変化がうまくかみ合えば、この学習法は有効に働いたことになる。
 「L1―M1―L2―M2」は2つの事実を示す。ひとつは各学習期の達成率、もうひとつは「+」と「-」の組み合わせである。この組み合わせは、①立ち上がりの度合い、②立ち直りの度合い、①と②の結果が示した③柔軟度である。これらの測度変数を置いて考察すると、脳は予想外に規則的に働いているのがわかる。協同学習者は学習者の次試行の「+」と「-」の予測が立つようになる。これは協同学習者と学習者の脳が同期しだしたことを示すのかもしれない。

参考文献

❶ラリー・スワンソン 2010(原著 2003) ブレイン・アーキテクチャー;進化・回路・行動からの理解 東京大学出版会
原著名;Brain Architecture : Understanding the Brain Plan 2003
❷富山尚子 2003 認知と感情の関連性―気分の効果と調整過程 風間書房
❸クロード・ベルナール 2008 実験医学の原理 丸善プラネット株式会社
❹須賀哲夫 2011実験心理学をリフォームする;理論心理学からの提言 北大路書房
❺村上宣寛 2006 心理尺度のつくり方 北大路書房
❻リンゼイ/ノーマン 1983 情報処理心理学入門Ⅰ 感覚と知覚 第二版 サイエンス社
❼I カント 2010 純粋理性批判全7巻 光文社
❽ウオルター・J・フリーマン 2011 脳はいかにして心を創るのか;神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意思 産業図書
(原著 Walter J. Freeman 2010 How Brain Make Up Their Minds Weidenfeld & Nicolson Ltd., London)

(2)学習報告 と発表


松阪 啓子 

K.H.さんの呈示された視覚的知覚課題刺激2,3の遅延時間10秒、その後の5秒での達成率差異のある事例について


5 主催 ラーニングボックス研究会

     部長 松阪啓子

第311回 「哲学・科学研究会」案内

研究会趣旨

 「ラーニングボックス学習法」を哲学・科学的に研究し「ラーニングボックス研究会」と「ラーニングボックス学習指導部」を理論的に導いていく。具体的な目標は学習者と協同学習者の関係性の質を高めるための理論と技法を精緻化すること。
現在は、感情と表情と状況の認知を継続して研究している。

1 会場;よこはま児童文化研究所 所長 原 ふみ
   横浜市西区平沼2−14−13 LM平沼第3−107号
   Tel & Fax;045(324)5679
   e-mil webadmin@yjklb.jp

2 開催日 2024年1月6日 土曜日
3 時間 午後3時〜午後6時
4 研究内容

(1)「1秒間の出来事の解明に向けて」 研究所 顧問 立川勲

 LBMは協同学習者のMD提示から、学習者のSD選択取得までの2秒足らずの短い時間内での出来事である。学習の目的は与えられたワークシートを使って、精確度と速度をアップすることである。学習の初期において、通常、この2つの度合いはトレードオフ関係にある。そこで記録用に所要時間と「+」と「-」を記す。所用時間の短縮と、「+」数の増加の結果から学習の成果を分析する。脳の働きがより機能的になったと判断する根拠となっている。

「L1―M1―L2―M2」で40試行を繰り返すと、その後ある学習結果としての軌跡が残される。その軌跡は学習者の脳の働きそのものである。脳の働きは経験によって出来ていく。したがって、脳の機能形成に刺激の異同と提示の回数がポイントになる。「L1―M1―L2―M2」法はこの必要条件を満たしている、と考えられる。学習記録の枚数の増加と、学習者の日常生活の変容・変化がうまくかみ合えば、この学習法は有効に働いたことになる。
 「L1―M1―L2―M2」は2つの事実を示す。ひとつは各学習期の達成率、もうひとつは「+」と「-」の組み合わせである。この組み合わせは、①立ち上がりの度合い、②立ち直りの度合い、①と②の結果が示した③柔軟度である。これらの測度変数を置いて考察すると、脳は予想外に規則的に働いているのがわかる。協同学習者は学習者の次試行の「+」と「-」の予測が立つようになる。これは協同学習者と学習者の脳が同期しだしたことを示すのかもしれない。

参考文献

❶ラリー・スワンソン 2010(原著 2003) ブレイン・アーキテクチャー;進化・回路・行動からの理解 東京大学出版会
原著名;Brain Architecture : Understanding the Brain Plan 2003
❷富山尚子 2003 認知と感情の関連性―気分の効果と調整過程 風間書房
❸クロード・ベルナール 2008 実験医学の原理 丸善プラネット株式会社
❹須賀哲夫 2011実験心理学をリフォームする;理論心理学からの提言 北大路書房
❺村上宣寛 2006 心理尺度のつくり方 北大路書房
❻リンゼイ/ノーマン 1983 情報処理心理学入門Ⅰ 感覚と知覚 第二版 サイエンス社
❼I カント 2010 純粋理性批判全7巻 光文社
❽ウオルター・J・フリーマン 2011 脳はいかにして心を創るのか;神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意思 産業図書
(原著 Walter J. Freeman 2010 How Brain Make Up Their Minds Weidenfeld & Nicolson Ltd., London

]5 主催 哲学・科学研究会

  部長 岩井康江

第286回 ゼミナール・コンサート案内


イギリス館 玄関

みなさん、どうぞご参加ください。お待ちしています。

1 会場:よこはま児童文化研究所(コロナ中)

  横浜市中区山手町115-3
  ℡045(623)7812
  交通みなとみらい線:「元町中華街」⑤番出口から徒歩7分
  JR:「石川町」徒歩20分
  バス:⑪系統「港の見える丘公園前」すぐ

2 開催日
  2024年1月14日(日)

3 時間 
  午後2時~4時

4 研究内容; 
(1)ピアノ演奏 原 ふみ;よこはま児童文化研究所 所長

ピアノ演奏 原ふみ
1970年国立音楽大学・楽理科を卒業。前田昭雄先生に師事しベートーベンの研究をする。現在は、「よこはま児童文化研究所」所長として子どもたちと多忙な日々を送りながら、音楽を目指す後進のために母校への進学を積極的に支援している。「音楽は世界を繋げる」と「ともどもに」を信念とする。出身地の北海道の大地をこよなく愛する横浜在住のピアノ演奏家、臨床哲学者、児童臨床家、そして大勢の児童との協同学習者である。

音大を出てから考えたこと

 よこはま児童文化研究所 所長 原ふみ
2020.10.29

はじめに

音楽の目的は何か。国立音楽大学で学んでから、これまでこの課題に取り組んできた。そして、そのこたえが発見できた。いや、こたえが私にやってきた。

音楽の目的は、全世界の人々が「ともどもに」かつ「協働愛」で生きていけるように願うことである。そのために作曲し、演奏するということに、わたしは確信がもてた。そして、この願いが実現できるように全世界の人々が一つになれる場を創っていくことである。

わたしは、国立音楽大学の楽理科を卒業した。そして、ある偶然の縁によって「よこはま児童文化研究所」という共同体で生活するようになっていた。この共同体は「ともどもに」と「協働愛」によって営まれている。現在、わたしはこの共同体で所長という役割を拝命している。
だから、今のわたしは、過去の音大での体験、経験と、現在の共同体における体験との融合体でできている。「よこはま児童文化研究所」に生きながら、音楽の全てを考えている。この「場」を離れた一切の思弁に興味と関心がもてなくなっている。この「場」あっての音楽になってしまった。

要するに、わたしの場合は西洋音楽が中心なのだが、この「場」に奉仕する音楽という視点から音楽の本質を考えようとしているということ。今となっては、こういう大切な事に気づくにはあまりにも遅すぎたかんがないでもないが、これも流れで赦すしかない。

繰り返すことになるが、自分が生きる「場」が定まって一切の出来事に意味が発生するということに気がついたということである。商売としての演奏でない限り、この気づきの有無は、わたしの一生を左右するものである。わたしが生きる「場」があって、音楽やその演奏に光があたる。CD化やDVD化できない一回限りの出会いと真実が立ち現れてくる演奏はわたしの生きている「場」が現実化するものであることに気づいた。「場」が最優先されなければならない。

遅い気づきであるが、今のわたしはそれでいいと覚悟している。これから、音楽への恩返しを込めて、音楽への伝道師として演奏を続けたいとおもう。

これまで40年以上にわたって、横浜の「港の見える丘」にある「イギリス館」で「よこはま児童文化研究所」の皆さんと実行してきた演奏を継続することが約束である。こういう決意に基づいて、音楽と共同体(「場」)との関係について考えていたことを書いておきたい。

1.すべての出発点を自分に置くこと

現在のわたしは、世界の中心を自分に設定することを自覚している。
この考えは自己中心的な考え方とは違うものである。誰かが言っていたからとか、誰かが書いていたからとか、こういう他人任せのあり方を破棄し、一切の責任が自分にあるという考え方を意味する。

この考えを自分のものとすることは非常に難しいし、この考えで生き抜くことは更に更に難しいと実感している。しかし、そうだからといって、他人任せの生き方を死ぬまでやるわけにはいかない。身の回りで起こる一切の出来事は全て自分の責任とする。

自分と無関係の出来事は一切起こることはないという自覚に生きる。こういう考えで生きることを自覚すれば、どのような惨めな人生だろうが、それがまた一層この自覚を深める契機となる。真の自分を生きる決意が向こうからやってきた。

究極的、絶対的な自分の自覚によって演奏会場に見えた聴き手と一体化できる。自分の自覚のもとに、演奏者としてのわたしはモーツァルトの楽譜とともに、わたしのこれまでの人生の何かを表現している。自分の人生に満足していないために演奏するのだ。また、楽譜の中に息づいているとわたしが聴き取ったモーツァルトの短かった人生もともに表現されている。この時にはモーツァルトは全作曲家を一身に引き受けているので、わたしは全演奏家を一身に引き受けて演奏しなければならない。モーツァルト単独、わたし単独のやり取りではない。

そこから更に、自覚している自分を自覚なしで、モーツァルトの楽譜を音に変換することはできないことが感得される。モーツァルトは、自分が作曲して自分の人生を生きていることをひしひしと感じていた。衣食住のために作曲したのではない。モーツァルトは作曲することを通して全世界の人間が一つの心で生きることを願っていた。そのように神によって定められたのである。神意だろう。だから、現在も、わたしはモーツァルトの残した作品を演奏し続ける。神意に従って演奏する。わたしはこの演奏で全世界の人が同じひとつの心で生きてくれることを願う。モーツァルトの音楽には世界をひとつにする魔力が潜んでいると確信があるために。

こういう願いの実現のためには、自分がモーツァルトのその作品をどのように聞くかにかかっている。全ては聞くことから始まる。この作品で世界をひとつにできるかどうか自分に確信しなければならない。この作品を聴いて、聴いて、聞こえて来るまで聴きぬかなければならない。「自分の自分で」聴きぬかなければモーツァルトと共に全世界をひとつする演奏はできない。

だから、わたしにとって演奏とは楽譜を聴きぬくことである。モーツァルトの楽譜を聴き抜いた結果がわたしの演奏である。なぜなら、モーツァルトはわたしに聞かせたいことを聞かせているからである。楽譜を耳で聴いて、こころで聞くことが、わたしの演奏の原点にある。
わたしは、モーツァルトのその作品を演奏する必然性を自覚できているかどうかをたえず自問する。なぜなら、わたしは商業演奏家ではないからである。わたしの生き方、生きてきた色合いを聴き手のみなさんに聞いてもらいたいからである。モーツァルトからの促しを受けて、すなわち、モーツァルトから「わたしのこの作品を演奏してごらん」と促されて、わたしは演奏する。これがわたしの演奏の根幹にある。

モーツァルトからの演奏依頼は、わたしがこの作品を演奏する必然性以外のなにものでもない。だから、演奏家のわたしは多くの作曲家からの促しを受けられるような生き方をしていなければならない。鍵になる言葉は「真実」である。これは絶対に伝わるのだから、命を賭けてもやり抜かなければならない。

わたしは、自分の演奏する音に自分だけが表現されているのではないことに気づいている。全世界の人が出している音が、わたしの出す音でひとつになっていることに気づいた。音は一瞬にして全世界を駆け巡る。だから「イギリス館」は全世界なのだ。その無数の手の結びつきが、今のわたしに見えている。音とは生そのものである。音の連続は生の連続であると気づいた。

演奏会場はこれまでの私の全人生が表現される場である。このことに気づくと、わたしが全世界とつながって生きていることが感得された。また、会場にいる全聴き手の方々の全人生の表現の場であることに気づいた。

来てくれた人は、「ちょっと、時間があいたから来た」のではない。会場に来たのはその人であって、空き時間がきたのではない。演奏者と聞き手との真剣勝負の場を演奏会という。明日の生のために会場に来ている。

演奏会場は音が表現されるだけの場ではない。わたしのモーツァルトの作品の演奏と聞き手の全人生との絡み合いが「聞こえない音」となって流れている。その聞こえない音こそ、演奏会から持ち帰るべき「音」である。命である。実際にピアノの音はきこえるが、その耳に聴こえた音を越えて、「きこえない音」を演奏で表現きるか、聞くことができるかを問わなければならない。

演奏会場は、演奏者自身が表現されている場であり、その姿が聴衆に伝達される。聴き手は、わたしが、どのようにモーツァルトの作品を演奏するかを感じているのではない。わたしが「なぜ」モーツァルトの作品を演奏しようと考えたのかを聞き取ろうとしている。これは、考えてみれば、非常に恐ろしいことである。聴き手はわたしの「底」を聞こうとしているのだから。演奏するわたしが、この場の一員であるかどうかを聞こうとしているのだから。聴き手は、わたしの「ともどもに」かつ「協働愛」に生きる姿勢に嘘がないかどうかを聞き取ろうとしているのだから。

2.作曲者を探さないこと

モーツァルトの作品にどれだけモーツァルト自身が表現されているか聴き取れているか?この仕事を自力でする。非常に難しい仕事であり、途中で投げ出したくなる。第一、わたしたちはモーツァルトを知らない。モーツァルトが残した作品(楽譜)を音化してモーツァルトを探り出さなければならない。作品のあちこちにモーツァルト以外の表現を見つけてしまう。これは音楽するものの本能としかいいようがない。あるフレーズに違和感を感じる。これは、わたしという人間のいたるところに私以外の他者が混入していることと同じ。

モーツァルトの作品の中で他の無数の作曲家が生きている。それは当たり前であろう。モーツァルトは彼以前の作曲家(例えばJ.S.バッハ)の作品を学習した。また父親がそういう教育をしたとも言われている。あの天才モーツァルトにもモデルがあったのだ。なぜなら天才とは先人によって創られたものだからである。先人のJ.S.バッハの作品を研究して天才になった。

モーツァルトは単独で作曲したわけではない。長い西洋音楽の歴史の一地点にモーツァルトが出現して、短い人生において、あのような真実の塊のような作品群を残せた。だから、モーツァルトといえども無数の先人と「ともどもに」に作曲したことになる。この事実を、わたしたちは知らなければならない。

モーツァルトはけっして単独で自力だけで作曲できたのではない。無数の先人の肩を借りて奇跡のような真実の作品を残せた。モーツァルトの前に無数の音楽があったという事実を知らなければならない。これは西洋音楽にひかれた者の義務である。

だから、モーツァルト単独の作品などこの世に存在しない。モーツァルトの前にモーツァルトあり、モーツァルトの後にモーツァルトありなのだ。だから、?=バッハ=モーツァルト=ベートーヴェン=?というように連綿と「初」の音楽が流れてきたし、これからも流れ続ける。全員で音楽を担いでいる姿を知るべきである。連綿として、音楽として流れているのは「初」の思想である。モーツァルトの作品を通じて音楽の「初」に辿り着くような演奏をしなければならない。これが、わたしに課せられた義務である。
 
3.作品論を読まないこと

 この作品論をよまないことは、日本人にとって耐えがたい苦痛を与える。自分が演奏する前に評論家が書いた作品論を読んではならない。どうしてもそういう類いのものを読みたくなる。西洋音楽は日本から遠いからだろう。何か足がかりが欲しくなる。そして、ついつい作品論に手を染めてしまう。外国に出かけるときの地図のように考えるのだろう。

しかし、演奏する時に、他者の考えは役に立たないのだ。「わたし」の全神経を総動員してモーツァルトの楽譜と対峙しなければならない。きっと名演奏家は自力でやっているはずである。そして自力で演奏することの限界に達して新しい局面に立たされる。そこからが演奏家の正念場である。初発は自力演奏でなければならない。

だが幸いなことに、モーツァルトの楽譜を読む、聴く、味わう能力は万人に備わっている。もちろんこのわたしにも備わっている。この与えられた能力を信じる以外に自力の演奏の極点に辿り着く道はない。モーツァルトの音楽を知り尽くすことは、そのまま自分の全てを知り尽くすことである。私はモーツァルトであり、モーツァルトがわたしである、この極点での演奏が唯一の演奏となる。それ以外に演奏というものはない。

モーツァルトの作品を評論家が理解できる根拠は何か。すなわちモーツァルトを理解できる根拠が問われる。また、わたしがモーツァルトを理解することは可能なのか。不可能なのか。可能と不可能を決めているのは何か。理解とは何ものかとの遭遇である。これなしの演奏は演奏ではない。

なぜ、評論家のその作品論が正しいと言えるのか。モーツァルトの作品を理解したと言えるのか。非常に難しい問題である。

わたしたちは、ただモーツァルトやモーツァルトの作品の周囲を空回りしているだけかもしれない。その作品論は評論家の解釈にすぎないので、自分の演奏に役立たないことを肝に銘じて知るべきである。ひとりの他者を知ること、理解すること、近づくことがどれほど大変なことであるか知るべきである。悲鳴を上げたくなるような絶壁を歩かなければならないのだ。進むも不可、戻るも不可、止まるも不可という絶壁での演奏体験が真の演奏になる。
他者を理解したと、なぜ言えるのか。人間の言葉で他者を理解することは不可能である。言葉と人間は対応していないから不可能である。音楽の言葉(楽譜)を通してモーツァルトを理解することは不可能である。音符とモーツァルトに対応はないからである。音符の連続形である楽譜からモーツァルトを聞き取って再構築する通路しかない。どこにも存在しないモーツァルトを聞き取って、どこにでも存在するモーツァルトへ近づくしかない。


だから演奏家とは、不可能な世界から逃れられない不幸な役割、あるいは最大に幸福な役割を担っているのかもしれない。わたしはこの事実から逃避することなく歩み続ける。

3つの子どもの歌

2019.5.23()
原ふみ


  三人の作曲家による3つの「子どもの歌」をとりあげてみたい。

 まず、一番目はロベルト・アレクサンダー・シューマン181068 - 1856729日)の『子供の情景』(Kinderszenenである。この作品15は、シューマンが作曲したピアノ曲の代表作のひとつ。特に第7曲『トロイメライ』は名高い。全13曲からなる。

  次に、モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー1839321 - 1881328日)による歌曲集『子供部屋』1868-72)である。この曲集は全7曲から構成される歌曲集。歌詞は作曲者自身による。彼の作品は作曲者の没後、ひとたびは世間から忘却されていましたが、「子供部屋」はその特異な旋律線、きわめて大胆かつ新鮮な和声感覚で、ドビュッシー、ラヴェルなど20世紀の作曲家に影響を及ぼした。

  最後に、クロード・アシル・ドビュッシー1862822 - 1918325日)による
『子供の領分』(Children's Cornerである。この曲集は1908年に完成させた全6曲からなるピアノのための組曲である。この作品は当時3歳だったドビュッシーの娘クロード・エマ(愛称シュシュ” Chouchou)のために作曲された。この作品は子どもに演奏されることを意図したものではなく、あくまでも大人が子どもらしい気分に浸ることを目的とした作品である。この点において、シューマンの『子供の情景』とも通じる精神がある。
6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」の主題部分

ドビュッシーは大変なイギリス好きで、『子供の領分』では英語表記で(Children's Corner)とした。彼が作曲家として生きた時代は、ラヴェル(ドビュッシーより13歳年下)の作品と比較され、象徴派だ、印象派だと騒がれた。しかし、彼が一生かけてやろうとした仕事は、ドイツ中心に発達したクラシック音楽の転覆だったのではないか。それは「ドビュッシー音楽論集;反好事家八分音符氏」(岩波文庫)を読めばわかることである。自由の闘士だったのだ!!


音楽の彼方、死は救いか

2018.12.5(水)
原ふみ


ムンク展が開催されている。こんな他愛もないことを夢想するのだが、「果たしてムンクはJ.S.バッハの音楽を聴いただろうか」などと。これにモーツァルトの音楽を加えてもいい。だが、ベートーヴェンの音楽を加える気にはならない。ムンクはパリに出て、絵を本格的に学んでいる。そこは芸術の都。音楽も十分に聴くチャンスはあっただろう。まして、人一倍、鋭敏な感性の持ち主であるムンクである。私は思うのだが、もしも、ムンクがJ.S.バッハの音楽の何かを聴いていたら、ムンクの精神の調和がかなったのではないか、と。でもそうなると、あの「叫び」は制作されなかったかも。

バラキレフは、大河ボルガ川とオカ川が合流するニジニ・ノヴゴロドで生まれている。バラキレフはこの合流地点で船乗りたちの歌う歌を聴きに出かけていたという。昔から、舟歌がある。船員たちの歌った歌は一体どのような歌詞でどのようなメロディーだったのだろうか。きっと、男の歌だったのだろう。女に思いを寄せる船乗りたちの熱い思いが、バラキレフが立っている岸辺まで届いていたにちがいない。



ムンクもバラキレフも、ともに、自分の人生という舞台上で絵を描き、音楽を作った。芸術 家には己の人生があり、その舞台で生を演じなければならない。そして、その演じ方が彼らの作品に大きく描き出されている。また音の連なりになっていく。そういうことなのだ。

例えば、ムンクは生涯にわたり自画像を描き続けていた。なぜ? ムンクはなぜ、自画像を描き続けなければならなかったの? 自己を知るために?
この「自」に拘ることで、その芸術が見る者、聴く者の胸を打つのだ。「自」の不在な作品に聴衆は見向きもしない。また、「自」の不在な演奏に聴衆は集まらない。これは決定的な芸術家の定めである。人間の世界は何処においても、いつの時代でも、この「自」を中心に蠢いてきたのだから、取り消しようがない。

聴衆は芸術家の先品から、芸術家の全人生の軌跡であった「自」を嗅ぎ取る。これは双方にとって、表現不可能なほど恐ろしい事実である。たとえば、日本の親鸞が書いた「教行信証」から、親鸞の全人生における「自」を嗅ぎ取るのは私一人ではないはずだ。どうしようもない親鸞が活きていたのだ。

作品はどうでもいいとは言わないけれども、もっと重要なのは作品からほとばしり出てくる芸術家の「自」それ自体である。そして、わたしたちは、その作品と作者の芸術家と「自」とを一つながらに感じ取ってしまうのである。これが、芸術家と聴衆との共同芸術行為作業の実体である。したがって、芸術家が芸術家作品として完成するのは聴衆の面前に作品を晒した瞬間である。作曲家は初演の恐ろしさを誰よりも知っているのだ。あのシューマンが初演を、胸をときめかせて聴いていたというエピソードがある。

ムンク  ;18631212 - 1944123日(81歳)
バラキレフ;183712 - ….1910529日(73歳)

 こうして、二人の芸術家を並べてみると、19世紀に生を受け、20世紀に死をむかえている。当時としては、両者とも、長寿といえるだろう。
そのぶんだけ、死への憧れの期間が長かったのではないだろうか。死するために生する。芸術が関わる時間とは、いかに活き、いかに死するか、この始点と終点の狭間の一瞬の風の時間にすぎない。しかし、この風が聴衆に大きな慰めや、驚きや、囁きや、方向性や思考作用を及ぼすのだから、無視することなど、一切できない。なぜなら、芸術とは他者の精神や感性に何らかの変動を与えるものだからである。

聴衆は変わりたいという欲望をもてあまし、コンサートホールや美術館に出向くのだ。変貌の欲望のない聴衆はただの遊び人なのだ。そして、ただの遊び人のなんと多いことか。舞台上の演奏家が気の毒に思える。音楽の聴取を、洋服を着るのと同じように、身につける物のように思っている遊び人が多いのではないだろうか。J.S.バッハの音楽を聴いて、敬虔な人間へと変貌したなどという話を聞いたためしがない。



(エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 音声ファイル)), 18631212 - 1944123日)は、19世紀 - 20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。)





バラキレフ(ロシア語: Ми́лий Алексе́евич Бала́кирев, ラテン文字転写: Mily Alekseyevich Balakirev, 183712 - 1910529日)は、ロシアの作曲家。今日では作品よりも「ロシア五人組」のまとめ役として知られている。)



ムンクの描いた絵をナチス政権は退廃芸術いう名目で80数点を没収した。ムンクは身の危険を感じた。死というあり得る存在を今まで以上に、具体的に感じたに違いない。自ら死を選ぶことと、他者から強いられことは、全く意味が違う。死への憧れを、他者からの強いられた死はぶち壊すのだ。

ムンクは生まれながらに、家族性の精神障害と結核という病が生の舞台となっていた。これは、そうとうにきつい舞台だ。当時としては、ふたつなが、不治の病とされていた。ムンクは人生の初期から死と向き合って生を始めた、ということである。終末と向き合うことの実態を知り得ない私は、ムンクの活きた舞台演技から、一体、何を受け取ればいいのだろうか。死臭。

芸術家や芸術に現在は存在しない。過去と未来だけが存在している。それでは、過去と未来が存在する場はどの時制なのか。そこが芸術のもつ難問である。ムンクの「叫び」に現在が存在していますか? バラキレフのピノソナタに現在が存在していますか?

現在などどこにも存在していない。なぜなら、人間の間で現在を共有することなど不可能なのだから。過去、現在、未来を一望に見渡せる時制がない限り、現在を認めることはできない。現在を認知することは不可能である。私たち人間の幸・不幸の源は、この現在を認知できない事実にある。もし現在を認知したかったら時計を止めるしかないだろう。

たとえば、ムンク最後自画像に時計と自作が背景になっているが、時計の図には「針」が描かれてない。なぜか、ムンクは何を生の舞台上で知ったのか。もしも時計が未来を指針するならば、ムンクは未来をも認知外と知ったことになる。わたしは、まだ、未来を認知外に置くことはできない。やはり、強い憧れとして未来(像)を執っておきたい。なぜって、もしも、未来が消失したらそれは「死の宣告」と等しいからである。死の宣告は待ってもらいたい、というのは多くの活き人の願いだろう。



バラキレフは、民族音楽という視点で作曲したが、当時のロシアはヨーロッパ音楽に追いつこうと藻掻いていた時代で、彼は次第に孤立していった。40歳頃にいったん作曲活動を停止した。そして、孤独と孤立の舞台のなかで生を演じた。弟子や仲間がそういうバラキレフを慰めている。私は、ここに、絶対矛盾を知る。なぜに、作曲家が孤独や孤立に陥るのだろう。

しかし、考えてみると人生に孤独や孤立はつきもの。まして「自」の世界で蠢く芸術家にとって孤独や孤立は名誉の勲章かもしれない。孤独や孤立こそ一人の人間を芸術家に変身させる魔法の杖かもしれない。孤独や孤立の「孤」を「自」と置き換えれば、「自孤」や「自立」に変身するではないか。

それでは、いつバラキレフは人間から望みの芸術家に変身したのだろうか。「18歳でサンクトペテルブルクに上京、大学で数学を専攻した後、ミハイル・グリンカ(1806.6.1~1857.2,15」の面識を得る。バラキレフを中心にツェーザリ・キュイらが集まって、1862年に無料音楽学校が設立される。1869年にバラキレフは、帝室宮廷礼拝堂の監督と、帝国音楽協会の指揮者に任命される。」こうしてみると、バラキレフが芸術家として世に認められた時期は、1860代ということになる。バラキレフの20代後半である。バラキレフは、「五人組」ばかりでなく、チャイコフスキーにも、いくつかの標題音楽や《マンフレッド交響曲》の作曲に、助言や批評をした。

ロシア5人組とは、19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団であり、

  • ミリイ・バラキレフ(1837年 - 1910年)
  • ツェーザリ・キュイ(1835年 - 1918年)
  • モデスト・ムソルグスキー(1839年 - 1881年)
  • アレクサンドル・ボロディン(1833年 - 1887年)
  • ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844年 - 1908年)

である。

このうち、グリンカの愛弟子であり、さまざまな音楽理論に通暁していたバラキレフが指導的役割を果たした。
 こうしてみると、バラキレフはロシア音楽界における舞台で主役を演じていたことがわかる。
少年時代に、ロシアにおけるモーツァルトの伝記作家ウーリビチョフから、さまざまな有益な音楽教育を受け、18歳でサンクトペテルブルクに上京し、大学で数学を専攻した後、ミハイル・グリンカの面識を得た彼にとって最大の敵はバラキレフの「自」であったといえる。
それが,「さまざまな音楽理論やドイツ・ロマン派音楽に精通していたことが、かえって、自発的な創造力を阻害したのか、「五人組」の指導者でありながら、同人のうち最も遅筆で、最初の交響曲は完成まで33年の歳月を要した。作曲の中断や改作も頻繁に繰り返された。」という後生の評価を受けることになったのだろう。

武満徹は、バラキレフと違い日本の音楽界という舞台に登りながら、世界の音楽界に目配りをして、最終的に日本の伝統から一歩も離れなかったような、離れ業をやっていた、と評価できる。生き方の上手下手が芸術家にもあるということか。
主にドイツ、フランス、イタリア、スペイン、イギリス以外の国々の作曲はヨーロッパ音楽に一日も早く追いつくことが使命であったのだ。アメリカの音楽家のL.バーンスタインの一生がその実例になる。

さて、バラキレフには、作品数は限られているが宗教曲がある。無伴奏(正教会の聖歌は無伴奏声楽が原則である)の正教会聖歌である。正教会聖歌(無伴奏)
諸預言者は預告せり(Свыше пророцы)である。また、他の宗教曲のと合唱曲して、つぎのような作品群が残されている。

-合唱曲『』1861cho
-6つの詩篇1880-90ho
-合唱曲『キリストは昇天したまい』1887 女声cho
-合唱曲『ヴセヴォロドヴィチ大公頌歌』1899cho,pf
-合唱曲『黄金の時は過ぎ去り』1891女声cho,pf
-合唱曲『偉大なポロツキー女学校長フョードロヴナ女史のための頌歌』1898女声cho,pf
-合唱曲『汝の溢れる慈悲の影の下で』1899 女声cho
-合唱曲『ロシアの祈り』1899女声cho
-合唱曲『全能の神を称えよ』1902 女声cho
-合唱曲『我が愛しの学校よ、我らは頌歌を歌う』1902女声cho
-合唱曲『さらば、我が忘れ難き天国よ』1908女声cho
が作曲されている。

 バラキレフも他の作曲家と同じように宗教曲を作曲した。わたしは、この作曲事実にある種の感慨を覚えるのだ。芸術家は人間である以上、何か、絶対者のような存在に身を向けることがあるという事実に胸を打たれる。
東洋的幻想曲《イスラメイ》は、18699月に書き上げたピアノ曲。1902年には、第2版の、改訂版が出版されている。自由なソナタ形式でまとめられた幻想曲であり、ピアノ曲の歴史において、最も演奏至難な独奏曲の一つに数えられている。作品を献呈されたニコライ・ルビンシテインにより初演された。
好戦的な民族主義者であったバラキレフは、ロシアの伝統音楽に影響された作風を採っていたが、カフカス地方に旅行した後で着想されたのが本作である。これについてバラキレフは私信の中で次のように触れている。

「…そこの豊かに繁った自然の荘厳なまでの美しさ、そしてそれと調和した住民たちの美しさ ―― これら全てが一つとなって私に強い印象を与えたのです。……私は土地の声楽に興味をもって以からというもの、チェルケス公と親しくなりました。殿下はしばしば私のところにやって来て、持っている楽器(どこかヴァイオリンに似た楽器です)で民俗音楽を演奏したのです。その中の一つにイスラメイと呼ばれる舞曲がありました。これに私ははなはだしい喜びを覚え、構想中のタマーラを主題とする作品にするつもりで、その旋律をピアノのために編曲し始めたのです。第2主題の旋律は、モスクワでクリミア出身のアルメニア人の俳優から教わりました。こちらの旋律は、彼が断言したところによると、クリミア・タタール人にはよく知られているとの由。」(Reishへの手紙 1892年)

《イスラメイ》はピアノの難曲の歴史において、独自の地位を占め、後世にも大きな衝撃を与えた。モーリス・ラヴェルはかつて友人に、《夜のガスパール》の作曲の目標は、「《イスラメイ》以上の難曲を書き上げること」だと伝えている。また、ロシア五人組の仲間のうち、ボロディンは歌劇《イーゴリ公》に、またリムスキー=コルサコフは交響組曲《シェヘラザード》において《イスラメイ》の一節を引用している。《イスラメイ》はバラキレフの死後まもなく、門弟セルゲイ・リャプノフによって管弦楽曲として編曲された。またイタリアの作曲家アルフレード・カゼッラによる管弦楽編曲版も存在する。

近年の音楽学研究によって、バラキレフが本作に残した旋律が、今なお旧ソ連の民謡に健在であることが明らかとなった。たとえば第1主題は、カバルディノ・バルカル自治共和国の「レズギンカ」の一種である。ただし、バラキレフの作品とは拍子が異なる。第2主題は、バラキレフが受けた説明のように、起源はタタール人の恋歌であった。

両者の晩年はどうだったのだろうか?それぞれに死を迎えているのだが、死ははたして両者にとって救いとなったのだろうか。
バラキレフは、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に埋葬された。この墓地には多くの芸術家が眠っている。



ムンクは、最後の自画像『自画像/時計とベッドの間』(1940-44年)などを制作した。19431212日、エーケリーで80歳の誕生日を祝ったがその1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気にムンクは気管支炎を起こし、翌1944123日に亡くなった。満80歳没。ナチス・ドイツの降伏で戦争が終結したのは、その後の194557日であった。



人間には、宗教に対して二通りの応対があるように思える。もちろん無神論者を除いてだが、人生の初期から宗教に取り込まれる人間、あるいは人生の終末間近で宗教に目覚める人間、現在は、どう活きるかと言うような問いが消えてしまったので、後者が圧倒的に多いのではないだろうか。なんとも、不幸な時代をわたしたちは生きているのだろうか。
また教養として宗教を取り沙汰する人が多いように見える。信仰とは無関係、寺や教会には出席しない。戒律など無関心、他者の存在など一切目に入らない。高速道路の危険運転などは、その宗教無視の実例だろう。書店で宗教書が売れ、テレビで宗教番組が放映されるが、他のドンチャカ話題と同列。
やはり、芸術家の魂である「自」への眼差しを世俗界の私たちも共有しなければ、地球は危ないのではないか。精神の竜巻、精神の洪水、精神の台風、精神の地滑り、こういう危機を乗り越えるには?
あなたはなら、どうしますか?
設計図がありますか。なければ、どこまで戻ってみますか。そして、過去の誰にどのように問いただしてみますか。池上彰だけに任せておけますか。



次の2つを参照させていただきました。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/エドヴァルド・ムンク)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ミリイ・バラキレフ)

黄金の時期

原ふみ
2018.10.24

 
 法然の出家の時期に二説が存在するという。ひとつは、父親が殺害されたその場が動機になったという説。もう一つは、出家した後に、父親が殺害されたという説である。したがって、この二番目の説の時期には、法然は比叡山に居たことになる。彼が15歳の頃である。



  どちらにしても、子にとって、親が殺害されるという事件は心身に傷を負うことになる。法然はそうして出家したということである。「悪人正機」という考え方も、こういう悲惨な出来事が絡んでいるかもしれない。そもそも彼に善悪の区別などなくなった時節があったにちがいない。たとえ実父を殺害した敵であっても、救われなければならなかったのだ。悪を生きた者にとって、救われる行為は義務なのだ。救われなければならない。しかし、救うのは慈悲である。これは並大抵の心境、心情、信実からは出てこない。やはり敵を憎む心情がごく当たり前なのだから。しかし、敵を憎んで、憎んで、また憎んで、その果てにポツンと明かりが灯る。それが向こうからやってきた慈悲なのだから。この時、彼にとって自他の境界は無になったのだ。敵の中に自分を発見し、自分の中に敵を認めることになる。そのためには徹底的に憎みとおす以外にないだろう。生半可な同情などは、自他を殺害するだけなのだから。

 私にとって、「法然」は生涯にわたり、大変に気になる上人の一人ではある。

 だが、法然の生きたように生きることはできない。そして土台、無理、なのだ。生まれも、育ちも、考え方も、宗教心の深浅も、性も、何もかもが異なるからだ。しかし、法然のもがいたように、私も、もがいて生きることは出来る。「もがき」ながらの人生に法然は立ち現れてくるかもしれない。



 さらに、幼児期に悲惨な出来事をもつ作家や音楽家も多い。たとえば、あの有名な作曲家マーラー(1860〜1911)も、父親という厳格な人格から相当の被害を受けていると言われる。同胞の殆どが夭逝している。こういう生育の歴史を持つならば、どういう音楽を求めるだろうか。そうだね、自然を求めるよね。マーラーは言った、「おれの音楽には、自然の全てが包含されている」と。彼は、何よりも「自然」に憧れた作曲家なのだ。作為のない、そのままの、生を支えているのは、そういう自然さなのだから。親鸞の最後の地点は、「自然法璽」だったね。ありのままに、生きる、そして、何事もなかったように、死す。生と死は一体なのだが、その「間」に「自然法璽」に達する時空が横たわっている。「ああ、生きている」という実感こそが、「時間」なのであり、そのときその「場」が空間なのだ。時空は私という身において一体になる。全てはわたしひとりのために存在する、という「時達」あるいは「時熟」がこちらに向かって歩み始めたときに、天界からわが身に「音楽」が沁みわたってくる。これこそが「音楽」なのだから。



 さらに、あの有名なロシアの作家、ドストエフスキー(1821〜18181)も厳格な父親を体験した。そういう幼児期,児童期を心の窓を閉じ、狭めて生き抜いた作家が辿り着いたのは「世界の調和」という憧れの夢想であった。母や同朋との、父の目を盗んで、家族としての憩いを味わった彼は、どのような思いで、ロシアで活き、そして死んだのだろうか。

 マーラーもドストエフスキーも、ともに母親との関係は「黄金の時期」を過ごしている。母の底知れぬ愛に包まれて育った子どもは、生涯にわたり「調和」を夢想する。言語を介在する必要がないほど身にしみて「全世界の調和」を夢想する。そして、生涯における偶然の機縁で、ほんとうに「調和」の世界を建設しよう実際に動き出すこともある。楽譜の、初めの音符は、慈母の思いが込められた音世界でなければならない。人生は「苦」だ。だから「音世界」が必要なのだ。音楽は、人生の「苦」と「浄」の間を生き抜くための必須の「音世界」を担っている、に違いないのだ。



 先走るが、J.S.バッハ(1685〜1750)の音世界は父親の社会性、あるいは社会的規範を中心としているように感じる。それに対して、前回にとりあげたフォーレ(1845〜1924)の音世界は母親の包含するような甘い切ない匂いを感じる。

 そう、音楽の柱は、(1)父親の世界を基礎にした音世界、(2)母親の世界を基礎にした音世界、の二つの柱があるように思える。そして、幼児期は母の音世界を聴くほうがいい。そして、言葉が身について来たら、父の音世界を聴くがいい。生きる人間には、両方とも必須なのだ。朝は父の音世界を聴き、夜は母の音世界に癒される、こういうバランスがいいのではないだろうか。

  もちろん、このようにきちんと裁断することは難しいが、そこが音世界の融通無碍な部分で、他の芸術と異なるところかもしれないが、聴き手の感じ方、あるいは感じる力によって、どちらかに傾向を示しながら受聴しているのではないだろうか?

  作曲家の幼児体験の傾向がそういう世界に向かわせるのではないだろうか。バッハは早い時期に両親を亡くし、兄たちに面倒をみてもらったようだが、独立心が強く、教会の合唱団に属して生活を立てていたが、変声期を過ぎると、教会の計らいで、器楽演奏で生計を立てたようである。これは、バッハの父親世界の音世界を暗示していないだろうか。
独立自尊の男児像としては輸出可能な生き方であった、と思う。両親がいないという厳然とした事実に逆らうことはできないだろう。「いない」ものは「いない」のだから。
  やっかいなのは、親は「いる」のに心理的に「いない」あるいは「いて欲しくない」場合だろう。フロイトの父親殺害のテーマがそのことを物語っている。いわゆる「エデイプスコンプレックス」である。(エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。)「母を訪ねて三千里」は他人事ではない。私たち人間すべては、「母」に会えるまで、訪ね歩いている、そのことを知らねばならない、父はどこにでもいる。社会規範そのものなのだから。しかし、私たち人間は「港」が欲しい。そしてそこに甘美な匂いが欲しい。エロスの匂いが欲しいのだ。わたしは、エロスとアガぺを峻別する二分法に反対したい。人間世界にはどちらも必須なのだから。

 さて、音楽は人生を豊かにするためにあったし、これからもそうあるだろう。そのためには、人生の秘儀を知らなければならない。しかし、実際は、人は人生という「場」に身を置きながら、人生を生き抜こうとしながらも、人生に微笑まれたり、裏切られたり、仲違いしたり、さまざまな葛藤のなかにある。そうして生き抜いて、人は人でなくなり、すなわち「仏」になり、人との「間」に生きる姿を目視して人「間」と姿を換える。この人生の過程は極めて困難だし、ある場合には不可能な道程でもある。そして、ほとんどの人は人「間」に生まれ変わる以前に死す。そうはなりたくない、と思う。

 「間」に生きることぐらい難しいことがあるだろうか。間が持たないという慣用句があるほど、難しい。間が持たないというのは,人「間」から人に戻りたいという願望を感じる。人「間」とは、人「と」生きることを意味する。「と」をバランスよく,関係を保ちながら生きることは至難である。日本とアメリカ大陸との「間」には太平洋が横たわっている。この海原で生きろ、と言われたら、私は驚愕するだろう。ちなみに、鎌倉の浜辺で、砂浜から500メートル離れただけで、死をイメージする。しかし、陸地も海原も地球なのだ。勿論、陸地は母であり、海原は父のイメージがただよう。自然は、陸地と海原と、二つながらを準備した。そして、ドビュッシーの音楽などには、この世界がいやというほど、漂っている。彼は「海」(自分が今いるブルゴーニュから海は見えないが、記憶の中の海の方が現実よりも自分の感覚には合っていると述べている。)と。海に憧れてはいけないのだ。陸地こそ憧れなければね。マーラーに「大地のうた」という作品がある。(、この曲から聴き取れる東洋的な無常観、厭世観、別離の気分は、つづく交響曲第9番とともに、マーラーの生涯や人間像を、決定的に印象づけるものとなっている。)

  作曲家も同様であろう。人生に翻弄されながら、それでもこの大地から足を離さずに、しっかりと立ちどまり、そして作曲を果たす、それこそ、人間としての「使命感」に突き動かされて作曲するのであろう。それだからこそ、作曲家(人ではなく、人「間))の作品が人ではなく、人「間」の魂を打ちのめすのである。
  単なる人は、作品を聴くことはないし、できない。人との間で生きることを決意した人「間」だけが、作品の世界の扉を開けてもらえるのである。作品が向こうから人「間」の魂に乗り移ってくる、だから、作品がきこえるためには,きこえてくるためには、人「間」に成ることを、いつか、どこかで決意することが求められている。その切っ掛けの秘密をもつのは、幼児期の両親との体験であろう。この時期は概念や言葉で世界を理解する時期ではない。身で知る重要な「黄金の時期」である。だからその体験の内実が生涯にわたり作動し続ける。

 音楽は人生のためにあるが、人生もまた音楽のためにある。人生と音楽は表記が異なるだけで,実は不即不離の関係にある。作曲作業とは、何気ない人生(音楽)にあるストーリーを持たせること。始めに「と」終わりに、を例示しているのだ。そうすると私の人生から誤りが減るかもしれない。あまりにも誤りが減ると,人生が味気なくなるのだが、「ほどよく」(間)あれば。

 さて、今日の作曲家イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860〜1941)はポーランドの作曲家である。


 作曲家、外交官、政治家、そしてポーランドの初代首相を歴任した人物である。『闘うピアニスト パデレフスキ自伝 上下巻』によると、母親が誕生後すぐに他界している。貴族の土地の管理者だった温厚な父親に育てられた。しかし、激動の時代にポーランドにはさまざまな政治的な問題が山積していた。彼が3歳の頃、父親が投獄された、という体験は大きかっただろう。その後の人生を決定した一部となったのではないか。
 奇しくも、彼が結婚した妻(大学の教え子)が男子を誕生して、すぐに亡くなっている。これは、出産の危機が高かった時代とはいえ、あまりにも悲惨な体験だったろう。だから、彼も、かれの息子も「母」の味を知らない。なんという悲惨な出来事だろう。彼らは,両人とも、「黄金の時期」を体験しなかったのだ。
  政治家と音楽家あるいは作曲家、なんとも私たちにとっては、座りごごちの悪い組み合わせのように見えるが、彼にとっては、全くそういうことではない。山田耕作のように政治的に動いたと評価されて、一部の人から誤解されたことはあっても、首相を歴任した彼には、及ばない。
  今日の聴きどころは、そういう所にあるかもしれない。ちなみに、彼はコンサートの冒頭で必ずこの曲を演奏したと言われている。
終わり

未生の美

原ふみ
2018.9.26(水)


 2018924日(月)は十三夜だった(「中秋の名月))。そして今日が十五夜である。この中秋の名月を見ることができるのは6割程度なのだそうです。ラッキーだったのかも。もう子供の頃に見ることができた月中のウサギは見えなかった。科学の落とし穴がこういう場にも出てくるのだ。アームストロングが月に着陸してしまって、わたしの夢をぶっ壊した。なんという暴挙!



  わたしは、この十三夜を夜空にくっきりと見ることができた。月の周りにうっすらと雲がかかっていた。でも、空高く浮かんでいる月に見惚れた。日本の和風月名では9月の月を「長月」といい、樺太アイヌ歴では9月の月を「木の葉が落ちる月」と呼ぶ。いろいろと呼び名がある。

 私が子どもの頃に聞いた歌がある。「十三夜」である。

十三夜

河岸の柳の 行きずりに
ふと見合わせる顔と顔
立ち止まり
懐かしいやら 嬉しやら
青い月夜の十三夜

夢の昔よ 別れては
面影ばかり 遠い人
話すにも
何から話す 振袖を
抱いて泣きたい 十三夜

空を千鳥が 飛んで居る
今更泣いて なんとしょう
左様ならと
こよない言葉 かけました
青い月夜の 十三夜


 この歌詞を作ったのは石松秋二だった。彼は19458月に亡くなっている。「太平洋戦争末期のソ連による満州侵攻の際に死亡したといわれている」。38歳で亡くなったのだ。
 父母の生きた時代は日本全体が貧しかった。その貧しさが文化を生んだ。その一曲がこの「十三夜」なのだ。この歌に詠まれている心情が現在の私の胸のうちに脈々と活きずいている。控えめで、どこかおっとりしていて、それでいてなんとも言えない愛くるしさがあった私の母がこの歌詞のなかに活きている。「こよない言葉」などは、現代のわたしどもの生活からすっぽりと抜け落ちてしまった。私たちは、今、どこで活きているのだろうか、と妖しい気分にさせられた。

『石山月』(月岡芳年『月百姿』)『源氏物語』を執筆する紫式部

 中秋の名月を見ていて、すると、ふと、清少納言(966-1025)が思い出された。そう、あの一文が思い出されたのだ、随筆の『枕草子』(1001年完成)だ。日本人なら誰でも知っている(はず!)の月の話題だ。案外に、日本人は彼女を嫌っている。そして紫式部を好いている(らしい。)自立した女性を日本の男どもが受け入れられないのかもしれない。
 
紫式部(978-1019)は彼女を

 「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」と評した。

また肯定的な評価として
「枕草子こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。さばかり、をかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることも、残らず書き記したる中に、宮のめでたく盛りにときめかせ給ひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせ給ひ、内の大臣流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどの、いみじき心ばせなりけむ

(様々な回想を記した中に、ただ中宮がめでたく栄えておられ、風雅をたしなみ、しみじみと情け深く、配慮にすぐれた素晴らしい様子を描き、伊周・隆家兄弟の左遷や実家の衰退に伴う中宮の悲境について、些かも言及しないのは、清少納言の「いみじき心ばせ」であった、とする『無名草子』作者の見解)。」
などがある。

 このように、日本には、古来、「いきつかない」「あいだ」に美を感じる心があった。明治の哲学者である九鬼周造(1886-1941)の『いきの構造』がそれを明確に示している。九鬼は次のように評価されている;

「…九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は『「いき」の構造』へと結実していく。さらに、「偶然性」と「必然性」あるいは「自己」と「他者」の二元性。この問題から結実するのが、主著『偶然性の問題』である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた「この私」の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない「この私」のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる「偶然性」を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の「独立の二元の邂逅」から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における「差異」という観点とも響き合い、現在注目を集めている。— 京都大学大学院文学研究科・文学部思想家紹介」

 このような「あいだ」の美は日本独特の考え方なのだろうか?「関係の美」と言ってもいいかもしれない。美は二者の「あいだ」に存在する。また、美感は学習の結果として獲得される感覚だとすれば、誕生地、時代、環境などによって同一の美感をもつ二人は存在しないことになる。おおよそ似たような美感をもつことは可能性としてはある。だが、同一の美感をもつことは絶対にない。それほど美感とは個人的な何かなのだ。九鬼の言ったように「偶然性」がその人の美感を形成したのだ。だから「あいだ」としか表現しようがない。「あいだの美学」しか存在しない。だから、いつどこでも、他者に自分の美感を押し付けることは無意味である。無意味なことはしないほうがいいだろう。すべて「あいだ」に秘密が隠されてある。
 それじゃ、どのようにして「あいだ」に偲びこむのだろうか。まずは、自己を凝視して「あいだ」の音を訊くことだろう。「あいだ」に実在する音に「訊く」ことから、「あいだ」の世界に偲びこめる、と思う。

 それでは、ガブリエル・ユルバン・フォーレの音世界に入る手がかりをさがしてみよう。日本人である私が、真の意味でガブリエル・ユルバン・フォーレの音世界に偲びこめるのだろうか。

 ガブリエル・ユルバン・フォーレGabriel Urbain Fauré 1845-1924)の顔の表情を見てほしい。この肖像画から、ガブリエル・ユルバン・フォーレの音世界を連想するのは難しい。作曲家というよりも官僚とでも言いたい。口髭をたくわえ、堂々とした表情からは、弱々しい印象を持つことは極めて難しい。
 目はしっかりと前を見て、決意を感じさせる。すがすがしい、一点のくもりもない表情だ。まるで、フランス音楽の世界を己の方の上にどっしりと乗っけているようだ。彼は、事実、マドレーヌ寺院のオルガン奏者をやめて、作曲の世界に移住した。相当な、並々ならない決意があったとしか言いようがない。そして、ラヴェル(1875-1937)等を育てるのだ。皮肉なことに、師匠のガブリエル・ユルバン・フォーレはオペラを無視したが、ラヴェルはオペラで名を成した。しかし、この事実もガブリエル・ユルバン・フォーレの決意に織り込み済みだったとしか言いようがない。60歳でパリ音楽院の院長に就任しているから、年齢差はおのずと知れる、


肖像画(1889、サージェント作)  マドレーヌ寺院

彼の作品の紹介を見てみよう。次のように評価されている。

  「フォーレはむしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲ピアノ四重奏曲ヴァイオリンソナタチェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲弦楽四重奏曲がある。
また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。
  歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光(Clair de lune)20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson) などかなりの数の歌曲を残している。」
ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。
  このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたりしていない。フォーレの音楽は劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。」
  「夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。」

  このような紹介文のなかで「微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。」という部分が目を引く。「未生の美」を感じさせるような文章ではないか。事実、フォーレの音世界に偲びこむと、はぐらかされたような、宙ぶらりんな感覚になる。ガブリエル・ユルバン・フォーレという作曲家は日本の「未生の美」に到達していたのかもしれない。それは、これから、わたしのガブリエル・ユルバン・フォーレの音世界への「愛」によって確かめられていくことだろう。

ロマン派とフランツ・リスト
2019.4.24

原ふみ+立川 勲
 

フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt、ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は)の「音楽」と「生き方」について書いてみたい。

はじめに


 さてその前に、少し、前置きをしておく。自分の関心の歴史とフランツ・リストとの接点を探す手がかりになるように考えを進めてみたい。
今の自分が関心を寄せている問題は、やはり、自分の身体にへばり付いている問題なのだと思う。ある問題についていろいろと考察を巡らして、その結果を出版するとしても、関心を持ってもらえるのは半径10kmぐらいに住む人たちだろう。

自分の関心事への確信

今の私は、私の関心のある問題についての考察に関して、他者から関心を持ってもらうよりも、自分で自分の考察と結果に関心を寄せている。どこまで、自分の思考が届くのか?そのことに最も関心がある。

 そして、自分の有する問題への関心が、自分の身の丈にピタリと合っていて、間違いない関心の持ち方であると確信を持つことが重要である。自分の全生命を貫く課題、問題であるという確信に基づく関心であることが、なによりも大切なのだ。フランツ・リストの人となりや、彼の業績や、彼のものの考え方や、彼の当時の歴史との関わり方が、自分の関心と合致しているのかどうか?

どうも、私は宗教に関心を持っている人に関心をもつらしい。ほとんどの社会は宗教の枠組みの中で生存している。しかし、はっきりと体制として、そうなっている社会(例えば、キリスト教国)もあれば、ただ何となく空気が流れるような社会(例えば,日本)もある。しかし、私は、人間は人生のどこかの地点で宗教と出会う、と思い込んでいる。

人間は、いつか、どこかで、宗教と向き合う(宗教との出会い)

そして、人間は、いつか、どこかで、宗教と呼び習わしている観念と出会わなくてはならないのだ。なぜなら、社会は宗教を不必要とするほど成熟していないからである。大いなる世界との出会いは二通りあるが、仏教は人間がその世界へと足を運ぶが、キリスト教(一神教)のほうは神が人間に示す。

この違いがあるが、どちらにしても、宗教は今だ必要不可欠なのではないかと思う。人間が不完全な分だけ、例えば交通事故を起こして知らぬ顔をする人間、親が子を殺害する事件、妻が夫をバラバラにする殺害事件、相模原事件のような誤った確信犯のいる社会など、枚挙にいとまはないが、法律だけで裁くことでは社会は維持できない。

 宗教とは自己と向き合う時に、突然、目の前に現れる。そして宗教は音楽と同じくらいの歴史を有する。コインの表裏の関係のような歩みをしてきた。そして、そのコインの表裏の間に人間という得体の知れないXが住んでいるのだ。

ナーガールジュナの「中論」の体得に向けて
         
インドの仏教哲学者のナーガールジュナ(100年頃?)の「中論」を理解しようとして、黒崎宏著(1928~)の

① ウィトゲンシュタインと禅 哲学書房 1987
② 言語ゲーム一元論 後期ウィトゲンシュタインの帰結 勁草書房 1997
③ ウィトゲンシュタインと「独我論」 勁草書房 2002
④ ウィトゲンシュタインから道元へ 私説『正法眼蔵』哲学書房 2003
⑤ ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』哲学書房 2004
⑥ 純粋仏教 セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える 春秋社 2005
⑦ 理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から 春秋社 2007
⑧ 「自己」の哲学―ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎 春秋社 2009

を読んでいるうちに、橋爪 大三郎(1948~)の宗教社会学に辿り着き、そこから、矢向正人(1958~)の「音楽と美の言語ゲームーウィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ」と流れ、そして、前川 誠郎(1920~2010)の「西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質」に行き着いたところである。
この一連の流れは作ったものではない。自然にこういう流れができたということである。その過程はまるで体が必要な栄養素を求めるような感じかな。

『中論』、正式名称『根本中頌』(こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。

第1章「原因(縁)の考察」(全14詩)
(「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証)
第2章「運動(去来)の考察」(全25詩)
(「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証)
第3章「認識能力の考察」(全9詩)
(「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証)
第4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩)
(「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証)
第5章「要素(界)の考察」(全8詩)
(「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証)
第6章「貪り汚れの考察」(全10詩)
(「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証)
第7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩)
(「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証)
第8章「行為の考察」(全13詩)
(「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証)
第9章「過去存在の考察」(全12詩)
(「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証)
第10章「火と薪の考察」(全16詩)
(「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証)
第11章「始原・終局の考察」(全7詩)
(「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証)
第12章「苦しみの考察」(全10詩)
(「苦」の非自立性を帰謬論証)
第13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩)
(「変化」の非自立性を帰謬論証)
第14章「集合の考察」(全8詩)
(「集合」の非自立性を帰謬論証)
第15章「自性の考察」(全11詩)
(「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証)
第16章「束縛・解脱の考察」(全10詩)
(「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証)
第17章「業と果報の考察」(全33詩)
(「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証)
第18章「アートマンの考察」(全11詩)
(「アートマン」の非自立性を帰謬論証)
第19章「時の考察」(全6詩)
(「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証)
第20章「原因と結果の考察」(全24詩)
(「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証)
第21章「生成と壊滅の考察」(全21詩)
(「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証)
第22章「如来の考察」(全16詩)
(「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証)
第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)
(「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証)
第24章「四諦の考察」(全40詩)
(「四諦」等の非自立性を帰謬論証)
第25章「涅槃の考察」(全24詩)
(「涅槃」の非自立性を帰謬論証)
第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)
(古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明)
第27章「誤った見解の考察」(全30詩)
(「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括)
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/中論
そして辿り着いた場は、あの「スフィアボール」のただ一つだった、という話。

    

幸福概念について

 幸福について思考すると時間の問題に突き当たる。幸福は過去にも未来にもなく、ただひたすら現在にある、という論理を理解できるだろうか。幸福と幸福感とは違う。幸福は論理的な問題であり、幸福感は心理的な局面である。あの「フーテンの寅さん」が必ず口にする「幸せになれよ」という名台詞は未来の時制になっている。だから心理的な表現になる。しかし「幸福」という問題は哲学的、論理的、認識論的な問題である。

 幸福の問題は、私たちの持ち時間(人生期間)の中で解決するものである。人間にとって「幸福」の問題以上に重要な問題はない。人間が考える全思考は必ずこの「幸福」をどう考えるかという「箱」の中に収まる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして仏教は、全て「幸福」についての考え方と、身の処し方について語っている。政治、経済,軍事はその「幸福」の追求の具体的な仮の処し方にすぎない。

 したがって、人間の全行為は「幸福」概念に沿っているかどうかによって評価されることになる。夕飯にラーメンを食べるか、寿司を食べるかに始まり、弱者にどのような政治・行政を実施するのが正しいのかに関して「幸福」概念に沿って実施されなければならない。
また、私たちの幸福は他者の存在を前提して成り立っている。しかし、他者とはなんともやっかいな存在でもある。なぜなら、一人一人の経験の積み方が違うので、了解しあいながらコミュニケーションしなければならないからである。

 フランツ・リストの女性関係は全て「不倫」関係だった。ワーグナーの妻となったコジマも不倫相手との子どもだった。これはフランツ・リストの他者(女性)とのコミュニケーションのやり方のまずさを現していないだろうか。もしフランツ・リストがピアノも弾かず、作曲もしなかったならば、同時代の人々から、どういう評価を受けただろうか。
フランツ・リストにとって所詮「愛」は「夢」だったのだろうか。そこらへんを異時代に生きる私が考えてみたい問題の一つである。

現在に生きる(現在に生き切る)

 先日、NHKの「100分で名著」の「マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus)121−180」を視ていたら「自省録」の中でナーガールジュナの考えと非常によく似た論理的表現に出会った。両者の活動年代は近い。「現在に生きよ」というメッセージは三時論として似ている。驚いてしまった。やはり、2000年も前から「現在」という時制が人間の「幸福」の鍵を握っていたのだ、と想った。
ナーガールジュナに「八不」という考え方がある。
① 不来不去
② 不生不滅
③ 不常不断
④ 不一不異
である。
 この論法が残った。時間という得体の知れない化け物をこの「八不」で退治しようというのである。そして退治後は「幸福」である。解脱、悟りの世界だからである。私たちの思考を「現在」という一点に絞り込めば「八不」である。「八不」いがいにありようがない。
 フランツ・リストの「愛の夢」はこの世界に触れているのだろうか。天才作曲家であっても「八不」に到達したとは想えない。

宗教を外側から考察すると

 さて、また、橋爪 大三郎と大澤 真幸(1958〜)との対談書の「仏教」あるいは「キリスト教」関係書を楽しみながら読んでいる内に、さまざまなことに気がつき始めた。
例えば、「歴史」の必然性に気がつき始めた。仏教やキリスト教を、その外側から(社会学)眺めると、今まで全く気がつかなかった内容に気がつき、驚きの連続であった。

 当然、対談の中でナーガールジュナの話も出てくる。仏教学内部で思考してきた者として虚を突かれたような感じがした。仏教がなぜインドに発生したのか。そして、なぜインドの仏教が消滅したのか。仏教の発生とインドのカースト制との関係を知れば、インドに仏教は発生し、いま、消滅したのかが分かるようになる。

 ならば、なぜ、西洋音楽であったフランツ・リストの「愛の夢」が、現在、楽譜が販売され、コンサートホールで演奏され、大勢の人に聴かれるのか、わかるというものである。それは、現代人も、当時の人々と同じように、フランツ・リストの「愛の夢」を必要としている社会に生きているからである。演奏者も聴取者もフランツ・リストの「愛の夢」を聴いて、何ほどかの「幸福」概念を納得できるからである。

今後、フランツ・リストの「愛の夢」を聴かなくてもすむ社会がやってくるかもしれないし、来ないかもしれない。それは人間が不可解な分だけ、予想ができない。

前川 誠郎の西洋音楽史の捉え方

 さて、話を音楽に戻したい。前川 誠郎著の「西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質」を一読して、やはり、橋爪 大三郎×大澤 真幸対談書で受けた驚きを感じたのである。
 前川 誠郎は美術史家であった。彼は1944年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業している。これで、大体、彼の時代の西洋音楽環境に察しがつくと想う。大正デモクラシーの直後の時代に青春を過ごした。同著の中で、彼の青春の西洋音楽環境を詳しく記述している。
 彼は、「デューラー 岩崎美術社「美術家評伝双書」, 1970」を世に送り出し、「デューラーの手紙 中央公論美術出版, 1999 岩波文庫 2009」で最後の出版となっている。その間に「西からの音 音楽と美術 彩流社, 1998、美術史家の音楽回廊 グラフ社, 2006。増訂版、西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質 講談社学術文庫, 2019。再訂版」の西洋音楽関係の著作を世に問うている。

前川 誠郎と吉田秀和と

 前川 誠郎の時代は、同時代人を音楽界から探せば、吉田秀和(1913〜2012)とほぼ重なる。吉田秀和は音楽から絵画評論へと進んだ。両者は反対の進路をとった。
しかし前川 誠郎は西洋美術の研究の前に西洋音楽に触れていたことを記している。そして西洋音楽の視聴体験が西洋美術の研究に役にあったと言うのだ。ちなみに、矢向正人の著作によれば、西洋音楽に「美」の概念があったが、日本音楽にはなかった、という。日本は「美」の概念が必要としない社会であったということである。

 ところで、吉田は「1946年、『音楽芸術』誌(音楽之友社)に『モーツァルト』を連載、本格的に評論活動を始める。」そして「2012年7月14日のNHK-FMで「名曲の楽しみ」(=私の試聴室を含む)「ラフマニノフのその音楽と生涯」27回目(同シリーズ最終回)を生前の録音で放送したが、事実上、吉田自らの声による放送はこれが最後となった。」と紹介されている。

 この両者は、フランツ・リストのほぼ100年後に生誕している。
 この両者は、わけのわからない西洋音楽に捨て身でぶつかっていき、多くの研究結果を私たちに与えて逝った。尊敬すべきである。そういう時代があって、今の、私たちの西洋音楽受容が成り立っているのだ。

フランツ・リストへの関心事

さて、フランツ・リストについて。
私が彼の生き方で最も関心を寄せているのは、「1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。」という事実である。なぜ?

 僧籍に入るか入らないか

 今の私は僧籍に入りたいとは思わない。多分、橋爪 大三郎の考え方から出家の必要を感じなくなったからだろう。キリスト教の教会運営も仏教の寺院運営も、ともに、この世の営みの一形態に見えるからである。
 「悪をなさず、善をつみ、清く正しい心で」生きる事は娑婆で十分にできると確信しているからでもある。ただ、僧職にある人々に何かを言挙げする気持ちは全くない。彼らとして人生のひとつの営みとしてそうしているのだから。こういう場面で,必ず、「スフィアボール」の図が目の前に現れるようになった。そう、「みんな、一続きの大陸に生きているんだよ」だ。

 フランツ・リストは54歳だった

フランツ・リストが僧籍に入ったのは54歳である。当時としては、晩年である。
彼はそれから晩年のベートーヴェンに出会ったりして、74歳でこの世を去っている。ということは、ほぼ20年間、カトリックの僧として(も)生きていたのである。コンサートでは黒い僧衣を着けていたという。なぜフランツ・リストは僧籍に入ったのか?

サラリーマンから僧職への例

 私の経験では、三菱にサラリーマンとして永く勤めたUさんという人が、天台宗の僧となって、盆暮れに、私の家に「お経」を上げに来ていた。このUさんはお嬢さんを亡くしたということだった。また、ふだんは道路工事関係の仕事をしながら、葬式や盆暮れに僧布を着る若者が我が家に来ていた。顔は日焼けして真っ黒だった。母が用意した昼膳をおいしそうに食べていたのを思い出す。かれは三ヶ月間、山に登って僧職の資格をとったと言っていた。彼はどこかの寺の住職を目指していたようである。でも世襲制で、空きがないとこぼしていた。

(そう言えば、パレストリーナ(1525年?-1594年2月2日)も「1570年代の10年間は身内に不幸が続いた。弟、音楽家として成長していた二人の息子、そして妻を、それぞれ1572年、1575年、1580年のペストの大流行で失った。パレストリーナは失意に陥り、一時期は僧侶になることも考えたようであるが、裕福な毛皮商の未亡人と再婚した。そのため経済的な独立を得ることができ(聖歌隊の楽長としての給料は不十分なものだった)、亡くなるまで生活に困ることなく作曲し続けることができた。」と紹介されている。)

フランツ・リストの多面性

 ところで、フランツ・リストを語る場合に、①ピアニストとしてのリスト、②指導者としてのリスト、③作曲家としてのリスト、④評論家としてのリスト、の4つの 領域からなされるようである。フランツ・リストはたくさんの貌を持っていたのであった。才能豊かな人だったことが分かる。このたびは、③作曲家としてのリストを取り上げたいと思う。
 音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。
 自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。

彼の作曲人生は大きく3期に

① ピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、
② ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、
③ 晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。

 ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。

 一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。

 晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。
 特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。
 最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。
またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』『キリスト』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。
 これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動(英語版)」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・リスト#ピアニストとしてのリスト

フランツ・リストの最後の世界



 フランツ・リストは最後に無調音楽に辿り着いた。恐ろしいことである。しかも、それをフランツ・リストは長年求め続けたというのである。無調=僧衣=黒である。一切の装飾を絶って黒の世界に入る。どういうこと?あの女性と浮名を流したフランツ・リストが? どういうこと?

無調とは

 無調、無調性(英語: atonality, ドイツ語: Atonalität)とは、調性のない音組織のことである。無調は単なる調性の否定でなく、厳密には、調的な中心音(特定の主音・終止音)がない、和声的な分類体系(トニカ‐サブドミナント‐ドミナント)が働かない、全音階的でないといった特色から、旋法性とも峻別される。
 
フランツ・リストは調性の終焉を予告していた?

  意図的な調性破壊の試みは、移調の限られた旋法と同じものが用いられたフランツ・リストの『調性のないバガテル』(1885年)に始まるが、作曲者の死後長らく、その存在が周知されることなく眠っていたということからすると、リストがこの作品で「無調音楽」を他人に聞かせる意図があったのか、それとも一時的な実験をしただけなのかは定かでない。
 しかしながら、同時期の『暗い雲』『メフィスト・ワルツ第4番』などで同じような手法を繰り返しているところからすると、フランツ・リストがきたるべき時代の音楽語法を予見していたことは間違いなかろう。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/無調

 フランツ・リストは、全生活のなかで、いつ、どの時点で、無調の世界に突入したのだろうか。フランツ・リストの生活において、無調の世界に入る必然性が、どこに、なぜ、あったのだろうか?ロマン派から現代音楽への道筋において、必然的に、作曲技法の観点から無調に突入した?ロマン派の技法において、フランツ・リストは喋りすぎた?あるいは、そのお喋りが空しくなった?あるいは、「空」や「無」の表現に活路を見いだしたかった?あるいは、カトリックと音楽との狭間で矛盾が生じて解決できなくなった?
さて、フランツ・リストがいない現在では、なにが正しい答えであるか知り得ない!

 フランツ・リストが属した音楽期は何か

 さて、話は尽きないが、フランツ・リストは西洋音楽史において、どの時期に属したのであろうか。実は、こういう疑問は西洋音楽史に関心をよせる者であれば、たいがい持つのではないだろうか。そして、音楽史の区分は美術史からの借り物であることも知っている。だから、まず美術史の区分が先にあって音楽史の区分が後から付けられたのである。

1 古代
1.1 原始美術
1.2 メソポタミア美術
1.3 エジプト美術
1.4 ギリシア美術
1.5 ローマ美術

2 中世
2.1 初期キリスト教美術
2.2 ビザンティン美術
2.3 初期中世美術
2.4 ロマネスク美術
2.5 ゴシック美術

3 近世
3.1 イタリア初期ルネサンス美術
3.2 15世紀の北方美術
3.3 イタリア盛期ルネサンス美術
3.4 マニエリスム美術
3.5 北方ルネサンス美術
3.6 バロック美術
3.7 ロココ美術

4 近代
4.1 18世紀から19世紀の美術
4.2 19世紀から20世紀の美術
5 現代
5.1 ベル・エポック
5.2 現代建築
5.3 現代彫刻
5.4 現代絵画
5.5 多様化する表現形式
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/西洋美術史

 これを見ると、区分は大きく5つに分かれる。
① 古代、②中世、③近世、④近代、そして⑤現代である。音楽史とぴったりと重なっているわけではない。そこが、問題なのだ。

 フランツ・リストの属した音楽期を考える場合には、ルネッサンス期、バロック期、古典派、ロマン主義を考えればいいだろう。

3 近世
3.1 イタリア初期ルネサンス美術
3.2 15世紀の北方美術
3.3 イタリア盛期ルネサンス美術
3.4 マニエリスム美術
3.5 北方ルネサンス美術
3.6 バロック美術
3.7 ロココ美術
4 近代
4.1 18世紀から19世紀の美術

この区分と重なっているとみなして見ていこう。

ルネサンス期の音楽
 ルネサンス音楽は、ヨーロッパにおける15世紀から16世紀のルネサンス期の音楽の総称である。 イギリスのジョン・ダンスタブルがヨーロッパ大陸にイギリス独特の3度・6度の和音を伝え、それが中世後期のアルス・ノーヴァの音楽やトレチェント音楽と統合されることによって始まった。宗教音楽では3度和声によるポリフォニーが発展し、ドイツ語圏ではコラールが生まれた。世俗音楽では宮廷音楽が見られ始める。また舞曲が流行した。

バロック音楽
 バロック音楽は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。ルネサンスの静的なポリフォニー音楽に対し、16世紀末のフィレンツェのカメラータで感情の劇的な表現のためにモノディが考案され、オペラが誕生した。宮廷音楽が発展し、多くの器楽作品が書かれた。教会旋法は長短の調に整理され、また舞曲に起源のある拍子が明確になった。またバロック時代を通じ、通奏低音による伴奏が行われた。

ロマン派音楽
 ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽。古典主義が重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義に基づく。技法的には古典派の調性や和声を引き継ぎつつも、半音階や遠隔調への転調を多用し、より表情豊かな表現が追求された。
 長大な作品も多いが、性格的な小品も多い。多くのヴィルトゥオーソが生まれた。表現の基礎としての詩情や、文学と音楽の混交も重視された。音楽以外の芸術でのロマン主義運動は1780年代から1840年代までとされるが、ロマン派音楽は19世紀を通じて続いたとされる。
 1850年代以降になると、ヨーロッパ各国でそれぞれの民族音楽や固有の言語と結びついた音楽様式がはっきりしてくる。特にドイツ・オーストリアの、拡大・拡張路線を推し進めた音楽はヨーロッパ全土に広く影響を与え、「後期ロマン派」と呼ばれる。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/音楽史#バロック音楽
この説明では、この3つの区分のメルクマールが説明されていない。多少の説明があるが15世紀から19世紀半までの時期をあげているだけである。

 前川 誠郎のフランツ・リストの属した音楽期は?

 さて、そこで前川 誠郎氏の「西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質」に聞いてみよう。
 フランツ・リストは西洋音楽史のどの区分に入っているのだろうか。前川 誠郎は「クラシックからバロックへ」の区分に入れている。この区分には、①晩年のベートーヴェン、②ワーグナー、③ベルリオーズ、そして④フランツ・リストが登録されてある。ちなみに、
A.バロックからクラシックへ J.S.バッハ、ヘンデル、グルック、モーツァルトとベートーヴェン
B.クラシックからロマン派へ シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、パガニーニ、ショパン
C.クラシックの終焉 マーラー、R.シュトラウス
D.20世紀の音楽 ドビュッシー、ラヴェル
と区分されている。

前川 誠郎の音楽区分法のメルクマール

 さて、それでは、前川 誠郎はどのようなメルクマールで区分したのであろうか。それは「様式概念」によって区分したのである。わかるよね、この気持ち。作曲家達は、同じ時代に活躍しているからといっても、それぞれの音楽観に基づいて、それぞれの音楽対象をもち、それぞれの表現意図をもち、それぞれの表現内容を実現したのだという事実を忘れていませんか。ただ、音楽用の記号に関しては,当然、同じように使う。あたりまえ。
それでは、西洋音楽史において、どのような様式概念があったのだろうか。

様式とは

1 ある範囲の事物・事柄に共通している一定の型・方法。スタイル。「古い様式の家具」「書類の様式」
2 ある時代・流派の芸術作品を特徴づける表現形式。「飛鳥(あすか)様式を模倣する」「様式美」
3 習慣・約束などで定められたやり方。「生活様式」「行動様式」
と説明されている。
出典 https://kotobank.jp/word/様式-145686

それでは音楽様式とはなにか。「表現の方法、形式、表示の型のことである。」がニューグローブの定義である。前川 誠郎の考え方のように一貫したメルクマールのよる区分のほうが、西洋音楽史を理解しやすいし、演奏や聴取も整理され、了解しやすい。この前川 誠郎の方に、音楽史家から、どういう反応があった未検討である。多分、門外漢として無視かも?

フランツ・リストの「愛の夢」
         
さて、今日のフランツ・リストの作品は「愛の夢」である。彼が40歳前後に作曲した作品である。

 『愛の夢』(独: Liebesträume)は、フランツ・リストが作曲した3曲から成るピアノ曲。
サール番号541。「3つの夜想曲」という副題を持つ。第3番は特に有名。
もともと歌曲として作曲した3つの曲を1850年に作曲者自身がピアノ独奏版に編曲したものである。

第1番 - 変イ長調(『高貴な愛』"Hohe liebe" S.307、ルートヴィヒ・ウーラント(ドイツ語版)詞、1849年作曲)

第2番 - ホ長調(『私は死んだ』 "Gestorben war ich" S.308、ルートヴィヒ・ウーラント詞、1849年作曲)

第3番 - 変イ長調(『おお、愛しうる限り愛せ』 "O lieb so lang du lieben kannst" S.298、フェルディナント・フライリヒラート詞、1845年作曲)



 フェルディナント・フライリヒラートの詩

 フェルディナント・フライリヒラート((Ferdinand Freiligrath、1810年6月17日-1876年3月18日)は、ドイツの詩人・翻訳家。)19歳で父を亡くした頃、最も広く知られることとなった詩「愛しうる限り愛せよ O lieb, solang du lieben kannst」がつくられた。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/フェルディナント・フライリヒラート

 フランツ・リストの不倫と「愛の夢」

 マリーと別れた1年後に書かれたのが、この「愛の夢 第3番」です。もともと、その2年前にフライリヒラートという詩人の詩に音楽をつけた歌曲として書かれていた作品でした。詩の内容は、どちらかというと、普遍的な人類愛や宗教的な愛を歌ったもので、男女の愛...いわゆる一般的な愛、をモチーフにしたものではありませんでした。

 そして、リスト自身は「愛を失いかけていた」時期の作曲なのですが、彼は歌曲をさらにピアノ独奏曲に編曲し、他の2曲とともに「3つのノットゥルノ(夜想曲)」として、まとめて数年後に出版し、自分でも演奏するとこの曲は人気となりました。今では結婚式をはじめ、愛の場面で多く耳にする、リストの代表的ピアノ曲です。
出典 https://www.j-cast.com/trend/2017/02/14290541.html?p=all



  「愛の夢」の原詩
         
O lieb’, solang du lieben kannst!

O lieb’, so lang du lieben kannst!
O lieb’, so lang du lieben magst!
Die Stunde kommt, die Stunde kommt,
Wo du an Gräbern stehst und klagst!
Und sorge, daß dein Herze glüht
Und Liebe hegt und Liebe trägt,
Solang ihm noch ein ander Herz
In Liebe warm entgegenschlägt!
Und wer dir seine Brust erschließt,
O thu ihm, was du kannst, zu lieb!
Und mach’ ihm jede Stunde froh,
Und mach’ ihm keine Stunde trüb!
Und hüte deine Zunge wohl,
Bald ist ein böses Wort gesagt!
O Gott, es war nicht bös gemeint, –
Der Andre aber geht und klagt.
O lieb’, so lang du lieben kannst!
O lieb’, so lang du lieben magst!
Die Stunde kommt, die Stunde kommt,
Wo du an Gräbern stehst und klagst!
Dann kniest du nieder an der Gruft
Und birgst die Augen, trüb und naß,
– Sie sehn den Andern nimmermehr –
Ins lange, feuchte Kirchhofsgras.
Und sprichst: O schau’ auf mich herab,
Der hier an deinem Grabe weint!
Vergib, daß ich gekränkt dich hab’!
O Gott, es war nicht bös gemeint!
Er aber sieht und hört dich nicht,
Kommt nicht, daß du ihn froh umfängst;
Der Mund, der oft dich küßte, spricht
Nie wieder: Ich vergab dir längst!
Er that’s, vergab dir lange schon,
Doch manche heiße Träne fiel
Um dich und um dein herbes Wort –
Doch still – er ruht, er ist am Ziel!
O lieb’, so lang du lieben kannst!
O lieb’, so lang du lieben magst!
Die Stunde kommt, die Stunde kommt,
Wo du an Gräbern stehst und klagst!
出典 https://de.wikipedia.org/wiki/O_lieb,_so_lang_du_lieben_kannst


 宗教感覚は愛の戯れの後に、そっと,あっという間に、忍び寄る。なぜなら、「愛」はもともと宗教語なのだ。特にキリスト教は「愛」の宗教とされているではないか。「隣人愛」という重大かつ必須なメッセージがある。

 フランツ・リストの宗教感覚が頂点に達して、宗教意識にまで沸騰した、そういうことではなかったのか。フランツ・リストには二人の重要な愛人があった。(ちなみにフレデリック・フランソワ・ショパンはジョルジュサンドだった。)この二つの「愛」の狭間でピアノを弾き、作曲をしたのである。そしてエミール・フォン・ザウアーとヴィルヘルム・ケンプを通じて内田光子まで繋がる大勢の弟子を育てたのであった。

 それでは、「愛」は全世界を救うのだろうか?40年前に、あるキリスト教の学校に講演に行った。その過程で、ある若いシスターが「キリスト教で一番大切なのは何でしょうか」と主任に尋ねた。すると、主任は「それは、愛です」と応えた。

 その学校が準備してくれたホテルで、何気なくTVつけると、渡辺貞夫のフルートの音が聞こえてきた。読売交響楽団によるモーツァルトの「フルート協奏曲第2番ニ長調 K. 314(285d)」だった。遠い昔の話ではある。

         

参考までに

前川 誠郎(まえかわ せいろう、1920年2月23日 - 2010年1月15日)は、美術史家、東京大学名誉教授。

京都府京都市生まれ。
1944年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。
旧制第三高等学校教授、京都帝国大学、九州大学助教授を勤め、1970年東京大学文学部助教授、1971年教授、1980年定年退官、名誉教授、国立西洋美術館長。1990年新潟県立近代美術館長。1991年春、勲二等瑞宝章受勲。

ミュンヘンの中央美術史研究所において研究し、デューラーおよびネーデルラント等の北方ルネサンスの美術に業績があり、1975年以来ライヘナウの修道院聖堂の実地調査を行った。1986年に、旧西ドイツ政府から、ゲーテメダルを受けている。1993年、フランス芸術文化勲章オフィシエを受章。

著書
デューラー 岩崎美術社「美術家評伝双書」, 1970
デューラー 人と作品 講談社 1990
<中世の秋>の絵画 美術史小論集 中央公論美術出版, 1991
西からの音 音楽と美術 彩流社, 1998
美術史家の音楽回廊 グラフ社, 2006。増訂版
西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質 講談社学術文庫, 2019。再訂版
日本の美術と世界の美術 中央公論美術出版, 2006
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/前川誠郎

5 主催 

 ゼミナール・コンサート部 部長 原 ふみ

              

6 連絡先
      よこはま児童文化研究所 所長 原 ふみ
      横浜市西区平沼2-14-13 LM平沼第3-107号
      ℡ & Fax :045(324)5679
      e-mail webadmin@yjklb.jp

みんなのコンサート 2020 .11.19

2020.11.21()


今日は「みんなのコンサート」においでくださいまして、こころより感謝申し上げます。

青空が美しい横浜です。ここは港町です。後ろには富士山と丹沢の山並みが見えます。夕方には真っ赤な空に富士山がくっきりと浮かんできます。海、港、山、河川、寺と神社、そして船とベイブリッジ、街にはさまざまな街路樹、こういう横浜の街が、わたしたちの境遇を照らし続けています。ありがたいことです。

現在は、人と人との間が非常に大切な時期です。血縁だけでなく、地縁、環境縁、「ともどもに」縁、「協働愛」の縁と限りない縁が大切な時期です。人と人との間に音楽が在ります。人々がいなければ音楽はあり得ません。音楽が永遠であるためには人の間に横たわる限りない縁を大切にしなければなりません。

人は間に生きて音楽を愛していくものです。そして人は人間に限りなく接近していくのでし ょう。「よこはま児童文化研究所」の人々は「ともどもに」と「協働愛」を二本の重要な柱として縁を大切にしながら生きてきたし、これからも、欲張らないで、縁に基づいて、縁の下の一人として生きていくのでしょう。

今日も、ここ「イギリス館」に何かの縁が働いて「みんなのコンサート」にお集まりになりました。本当に不思議な縁としか言いようがありません。わたしたちは、縁の力によって縁あって生き合ってきました。これからも、他者と出会い、そして生き合い、互いに愛しながら、縁に感謝しながらーーーーー

「よこはま児童文化研究所」
みんなのコンサート部長 原ふみ 

青年部 ボーリング大会のお知らせ


1.日 時 2022年12月x日 日曜日 
2.場 所 ラウンドワン (412)−0888
3.時 程 11時~  
4. 集合  京浜急行 横浜駅 中央改札口 10時

2021.9 日本特殊教育学会

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2021.8. 青年部 プール大会

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2021.12. 22 (日)青年部 ボーリング大会
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2019年12月22

「1月のトントンは、〇日だよね!」今年の年末の青年部のボーリング大区会では、始まる前から、この様な声が聞かれました。

薄曇りの天気の中、集まったのは、総勢14人でした。メンバーは、林 健一さん、上野 岳さん、二村太朗さん、野上智彦さん、田口詩織さん、悦子さん親子、笠紗都子さん、智子さん親子、森和正さん、荘司貴之さん、小林徹司さん、足立圭子さん、氏家百合子さん、松阪でした。

田口さん親子は、少したってから、来場しましたが、会った際、どの人も熱気につつまれていました。店の受付で、靴を借り、4階のフロアーへ。みんな手際のいいことは、例年通りです。

会場は、整備工事の後、少し狭くたった感じでしたが、流行歌に合わせて、みんな大躍進。
「今年は、ガーターがあるから、やりにくいなあ。」
と言っている側から、ストライクが出始め、みんな、スタッフより状況に慣れるのに時間がかかりませんでした。

「来年の予約、お願いします!」
元気な声で店を出て、向かうのは、ピザのお店。去年と同じスタッフに会い、ここでも来年の分の予約を済ませました。

今年は、副所長の人達にたくさん支えられた思いがしました。続けて来る青年部の部員の思いの強さに圧倒され続けていました。夏のプールの予約までして頂き、年が暮れるスピードを感じた今年のボーリングでした。

成長日記

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2019 N.M.S in HAYAMA 19

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2019. 12月 第135回 天城こどもと親とのワークショップ

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2019.8 第32回 公開講座

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2021.10.13 第45回 総会

 

2023年 11月 トントン広場

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2023 10. 第49回 総会

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第178回 2023年12月 ともだちと あそぼかい

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2021.12 みんなのコンサート
2023.1.8 新春ハイキング 金沢動物園

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2023.2 弘前ラーニングボックス研修会

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